ベルリン・マラソンのゴール後に笑顔を見せる細田あい（左）と松田瑞生＝9月29日、ベルリン

　五輪マラソンの補欠は精神的に極めて難しい立場だ。あと一歩で代表の座を逃した悔しさを抱え、本番で走れる可能性が低いと分かっていても、万が一の時のために準備しなければならない。マラソンの練習は生半可な覚悟ではこなせないほど過酷。その複雑な境遇を経験した2人が、9月29日のベルリン・マラソン女子で快走を披露した。今夏のパリ五輪で補欠だった細田あい（28）＝エディオン＝は、日本歴代7位の2時間20分31秒で5位。2021年東京五輪で補欠の松田瑞生（29）＝ダイハツ＝は、日本歴代8位の2時間20分42秒で6位に入った。2人は同学年で元チームメート。ともに現役引退を考えた苦悩の時期を経て再起し、来年9月の世界選手権東京大会の代表候補に名乗りを上げた。（時事通信ロンドン特派員　青木貴紀） 【写真】ベルリン・マラソンのゴール後に山中美和子監督と抱き合う松田瑞生 ◆2人そろって自己新記録 　2人とも1キロ約3分20秒のペースを終盤まで見事に保った。細田は「すごく流れに乗っちゃったというか、いいリズムではまった」と振り返り、松田はスタート直後こそかみ合わない走りだったが、「10キロぐらいではまった」という。起伏がない世界屈指の「高速コース」で心地良い感覚をつかんだ2人は、中間点を1時間10分13～14秒で通過した。 　失速した選手を次々とかわし、順位を上げていった。勝負どころの終盤も互いの存在が刺激になった。細田は苦しくなった38キロ以降、「松田がいたので、一緒に行かなきゃ、という思いでずっと走っていた」。40キロも同タイムで通過し、最後は細田が前に出てフィニッシュ。2人そろって自己新記録をマークし、レース後は笑顔で充実感をにじませた。 ◆補欠の「責任」 　細田はこの夏、歯がゆい時期を過ごした。パリ五輪では、日本代表で日本記録保持者の前田穂南（天満屋）が、レース2日前（8月9日）のMRI検査で右大腿（だいたい）骨の疲労骨折が判明して欠場。日本陸連によると、レース前日の午前9時までは選手の入れ替えが可能だが、陸連は補欠登録の解除時期を8月2日に設定。細田は既に補欠を解除されていたため、入れ替わって出場できなかった。 　目標としていた憧れの舞台で走るチャンスがあった。そのために補欠の立場で懸命に調整してきた。当然、やり場のない思いが込み上げた。今年3月の名古屋ウィメンズマラソンを故障で欠場した細田は、スタートラインに立てなかった前田を気遣いながら、当時の心境をこう振り返った。 　「マラソンはスタートするのが簡単じゃないことは、私自身も（過去に）欠場して分かっている。その舞台で走れたかもしれないという思いはやっぱりあって、きつい部分はあったけど、自分でつかみ取ったものではなかった。次の目標に向けてやることが補欠としての責任じゃないけど、しっかり準備していたんだという証しにもなると思った。その成果が自己ベストという形で出て、とてもうれしい」 　細田は以前は松田と同じダイハツに所属。20年にけがを繰り返し、走ることが嫌になって現役引退を周囲に相談していたほどだった。パリ五輪のレースを最初は見る気になれなかったそうだが、途中から気になってテレビ観戦し、日本選手を応援したという。五輪後はネガティブな感情を引きずった。それでも、「やっぱりめげていては駄目だ」と心を奮い立たせ、自己記録を約2年ぶりに1分11秒更新した。 ◆大嫌いな陸上が大好きに 　20年3月の東京五輪マラソン代表会見。補欠として出席した松田は心の整理がつかず、こらえきれずに大粒の涙を流した。つらい経験を乗り越え、22年の大阪国際女子マラソンで日本歴代5位（当時）の2時間20分52秒で優勝。世界選手権は22年（9位）、23年（13位）と2大会連続で出場した。 　今年1月、地元で通算3度の優勝を誇る大阪国際女子マラソンに出場。3位にとどまり、パリ五輪代表に届かなかった。1カ月以上休養し、現役を続けるかどうかじっくりと考えた。3月にチームに戻った時、山中美和子監督に掛けられたこの言葉が胸に強く響いた。「まだやめたらあかん。私は大嫌いなままやめたけど、もう一つ先に進んで、楽しい感情を思い出してからやめてほしい」 　松田は再び走りだした。原点に立ち返って豊富な練習量を確保。8月から40キロ走を4度、45キロ走を1度こなし、こつこつと土台をつくってきた。8月下旬からは米アルバカーキで高地トレーニングに励み、1カ月間で約1400キロも走り込んだ。「今までで3本の指に入るぐらいの量と質の練習ができた」 　2年8カ月ぶりに自己記録を更新。両手を広げて笑顔でゴールを駆け抜けたその姿が、松田の思いを全て表していた。うれし涙を流しながら、山中監督と抱き合った。「初マラソン以来、マラソンが楽しいと感じながら走れた。これだけ苦しんできて、やめようかな、やろうかな、と境目にずっといた中で、初めてここまで続けてよかったと思えた。大嫌いだった陸上が大好きになった」 　細田と松田が目指しているのが、来年9月に34年ぶりに東京で開催される世界選手権だ。細田は「勝負の年。冬のマラソンでしっかりと代表権を取れるように頑張りたい」。松田も「挑戦することに意味がある。東京五輪をあと一歩で逃したので、その雪辱を果たせたら。（発着点の）国立競技場で走りたいという気持ちが大きい」と決意を口にした。数々の挫折からはい上がった2人がこの冬、どんな走りを見せてくれるのか楽しみでならない。