『レペゼン母』で注目の作家・宇野碧は“言葉の人”であるーー新作短編集『繭の中の街』を読んで
そうか、分かった。三冊目の著書となる『繭の中の街』を読んで、宇野碧という作家の本質が、やっと理解できた。もちろん私が思っているだけで、間違っているかもしれない。だが、それでも断言したい。作者は“言葉の人”である。 本書は書き下ろし短篇集だ。収録されているのは、エピローグに当たる「待ち合わせの五分前(おわりとはじまりの詩)」を含めて七作。各物語の分量は、かなり違う。冒頭の「エデンの102号室」が一番長く、百ページ近くある。主人公は浪人生の布珠。山の手に幾つもある異人館の見学チケットを売るバイトをしながら、大学受験の勉強をしている。そんな彼女が、同じ十九歳の真悟と出会い、恋に陥る。養蚕農家の友達の家から蚕を貰って飼っていたという真悟。繭が残された部屋で二人は愛し合い、異国情緒溢れる街を歩く。しかし真悟には、どこか不思議なところがあった。 真悟の正体は、それほど意外ではない。多くの人が、途中で見当がつくだろう。作者もそれは承知の上で、二人の恋を静かに綴っていく。その過程で布珠は真悟の部屋で彼の書いた神話のような小説を発見し、自分のやりたいことに気づいていく。もともと言葉に敏感で、「言葉は口から出て空気に触れたとたん、酸化して別のものになってしまう。だからきっと、何も入り込まないほど密な距離にふたりがいる奇跡的な瞬間にしか、そのまま伝わらないのだ」「今までに読んだたくさんの本、観てきた無数の映画のなかにある無数の言葉から、ふさわしい言葉を探そうとするのに、ひとつも見つけられなかった」と思う布珠の口から、自分の想いを伝える言の葉が零れ落ちるようになる。そこに彼女の進む道があった。本作はファタスティックな恋愛物語であると同時に、ヒロインが自分の道を見つけるまでを描いた成長譚にもなっているのである。 それにしても布珠が、ふさわしい言葉を見つけられないと思うシーンは、大いに同意してしまった。私も書評などを書いているときは、その作品や作者を表現するのに相応しい言葉を探している。見つけたと確信できたときは、スイスイ文章が進む。逆に見つからないときは、空白となったふさわしい言葉の周囲をグルグルと回るような、煮え切らない文章になりがちだ。言葉は本当に難しく恐ろしい。作者は「エデンの102号室」で〝言葉はいつも、間に合わない〟二人の人物の会話で進むショートショート「Let's get lost」で“だから言葉は、最終的に信用できない”と、辛辣な文章を書いている。それは真摯に言葉と向き合っているからだろう。 振り返ってみれば、作者は最初からそうだった。デビュー作『レペゼン母』は、和歌山の田舎町で梅農園を経営している六十代半ばの女性が、放蕩息子とラップバトルをするという愉快な作品だった。設定の面白さに惹かれたが、よく考えればラップ自体も言葉が重要。作者は最初から、言葉を大切なテーマにしていたのだ。 本書の中では、港湾労働者の男と、パラレルワールドの住人の接触を描いた「プロフィール」も、言葉に対する強いこだわりが現れている。言葉は通じるが、生きる世界が違いすぎて、認識がかみ合わない二人の姿がもどかしい。しかし異種恋愛譚ともいうべき本作は、未来に希望を抱ける形(他の収録作と微妙に繋がっている可能性がある)で締めくくられている。きっと、言葉に対する信頼があるからだ。その信頼があるからこそ作者は、自己を表現する手段として、言葉だけによる小説を選んだのではなかろうか。 あまり触れる余地がなくなったが、ちょっとミステリーのテイストがある「つめたいふともも」、言葉ではなく絵に重要な役割を託した「赤い恐竜と白いアトリエ」、すっとぼけたシートシート「秋の午後、神様と」も、それぞれ面白い作品だ。特に「赤い恐竜と白いアトリエ」は本書の中で唯一、作中の時代が確定している。そこに深い意味がある。 そうそう舞台についても触れなければ。収録作はすべて神戸を舞台にしている。ところが、はっきりと神戸と書かれているのは「エデン102号室」だけだ。しかも“神戸”という言葉が出てくるのは後半であり、読めば意図的なものであることが分かる。このように本書は細部まで目を配り、繊細に物語世界を組み立ているのだ。今後の作者の飛翔を約束する、注目すべき一冊である。
細谷正充