「光る君へ」紫式部の子孫は今の皇室へとつながっていく 女系図でみる日本史の真実
紫式部の子孫は意外なまでに繁栄している。 紫式部腹ではない宣孝の子孫も混ぜれば、院政期貴族社会の中枢を担っていたと言えるほどだ。 光子の甥の顕隆は『今鏡』によると“夜の関白”の異名を持つ権勢家だった。 「白河院の院司として毎夜院の御所に伺候し、彼の進言することはすべて聞き入れられた」(竹鼻績全訳注『今鏡』上 語釈)からだ。 建春門院平滋子も宣孝の子孫で、ということはその子の高倉天皇や孫の後鳥羽院も子孫であり、また107歳の長寿を保った北山准后も、宣孝の子孫の実氏との間に娘をもうけ、その娘と後嵯峨天皇との間に生まれたのが、後深草院や亀山院である。ということは、女系図で見ると、宣孝の子孫は今上天皇に幾重にもつながっている。
清少納言と紫式部の意外な接点
一方、紫式部がライバル視していた清少納言は、紫式部周辺の子孫と比べると、振るわない……と言いたいところだが、実は、娘が天皇家につながる宣孝の子孫を生んだ下総守藤原顕猷の先祖は、清少納言の夫の一人であった藤原棟世の曾祖父の兄弟だ(系図4)。 しかも清少納言と紫式部の子孫は思わぬところで交わっている。 上東門院小馬命婦は清少納言と藤原棟世の娘とされるが、小馬命婦がその娘に代わって詠んだ歌が、『後拾遺和歌集』に載っていて、相手は高階為家、すなわち紫式部の孫なのだ。彼は、小馬命婦の娘とつき合っていたものの、訪れが遠のいていた。それが“みあれの日暮れには”と言って“葵”を寄越してきた。 “みあれ”は賀茂祭の前に行われる神事のこと。“葵”は賀茂社の神紋で、祭の日は髪にかざしたり家に掛けたりした。 “逢ふ日”にも通じ、要するに「みあれの神事の日の暮れに逢おう」と言ってきた。それで小馬命婦は娘に代わって詠んだ。 「この草は葵とは見分けがつかぬほど枯れてしまったのに、どう言って、みあれの神事の今日、掛ければいいの? あなたはすっかり離れて行ったのに、どうして今日が逢う日だというの?」(“その色の草とも見えずかれにしをいかにいひてかけふは掛くべき”) その後、二人が再会したかは不明だが、紫式部の孫息子と清少納言の孫娘は恋人同士だったことが、この歌から分かる。 紫式部―大弐三位、清少納言―小馬命婦、和泉式部―小式部内侍、伊勢御息所―中務……といった具合に、母と娘で名を馳せる中流貴族が多いのも、平安中期の特徴だ。 女系図で見ると、思わぬ人々のつながりに驚いたり、「誰それの女(むすめ)」「誰それの母」といった名のない女が、一族繁栄の意外なカギになっていることが分かるのだ。 *** 前編〈「紫式部の名前が不明なのは「ストーカー対策」だった? 女系図で分かる意外な血縁関係」〉では、平安時代の意外な「名前事情」を解説している。
デイリー新潮編集部
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