<私の恩人>陣内智則、売れない悔しい日々…ジュニアのことも嫌いだった
また、当時は「千原兄弟」さんが絶対的なエースで「千原兄弟」の発言が絶対やったんです。だから、そこが僕らをおもしろくないと言うと、それが正解になる。そういうレッテルが貼られる。それに、当時のジュニアさんは、いわゆる“ジャックナイフ”の時期でしたから(笑)、おもしろくないことに対しては本当に厳しかったですからね。だから、正直、腹も立ってましたし、こんなん言うたらアレですけど、嫌いでした。でも、コンビを解散して仕事がなくなった時に「何にもしてへんねんやろ?」とラジオに呼んでくれたのはジュニアさんでした。何なんですかね、ちゃんと見てくれてたんやというか。それがやっとそこで分かったというか。すごくうれしかったですね。 ジュニアさんから言われて印象に残っているのは、ハードルの話です。「ハードルでいうと、お前は低いハードルを次々にポンポンポンポン越えていくタイプ。俺は高~いハードルを助走して飛ぶタイプ。しかも、1回で必ず飛び越えることを求められる。どっちがどうということではなく、俺はポンポン越えていくことはできないし、お前はお前でそれをやっていけばいい」というようなことを言われたんです。その言葉をもらって、自分の中で整理がついたというか、確実に気持ちが変わりました。 あと、もう1人。間違いなく恩人といえるのが、吉本の社員さんで今は大阪・なんばグランド花月(NGK)の担当をしている新田敦生(にった・あつお)さんという方です。もともと「ダウンタウン」さんのマネジャーもやっていた方です。繰り返しになりますが「リミテッド」としては全くうまくいかず、解散することになった。解散後はピンとして活動を始めたんですが、ネタを作るわけでもなく、仕事もほとんどないまま2年ほど経ったんです。そんな時期に、当時僕ら若手がホームグラウンドにしていた「心斎橋筋2丁目劇場」に支配人として来たのが新田さんやったんです。開口一番言われたのが「とにかくネタをしろ」ということでした。「ネタをやるか、芸人を辞めるかどっちかや」と。 コンビでもダメだったのに、ピンでネタをするなんて思ってなかったんですけど「辞めるんやったら…」と思って、ネタを作ってみたんです。この日の舞台でピンネタをやるという日が決まって、そこがいわば、テストみたいになるわけです。その2週間ほど前からは寝られませんでした。変な言い方ですけど、その日に処刑台に上がるみたいな感じで、その日で芸人人生が終わるんやろうなと。当日は朝から手が震えるし、このまま、逃げたろうかとも思いました。