フィリピンの国民的英雄から始まる日本との友好の絆
おせいさんの後半生と墓地
22歳でホセを見送ってからおせいさんは長らく独り身で過ごした。1897年に30歳で大学教師の英国人と結婚。当時としてはかなりの晩婚である。前年度にホセがマニラで処刑されたことは日本でも新聞報道されており、ホセの死を知ったおせいさんは結婚を決意したのであろうか。 おせいさんは1947年80歳で亡くなり、英国人の夫とともに雑司が谷の墓地に埋葬されている。墓地には毎年ホセの誕生日にフィリピン大使館が献花している。
フィリピンの対米独立闘争と日本人義勇兵
ドゥマゲティの民間戦争博物館のオーナーのカタル氏(『「生きてこそ大和櫻」太平洋戦争、ネグロス島東部の戦い』ご参照)が語った米西戦争以来のフィリピン人の反米感情と明治の日本の独立支援の話を思い出した。 ホセ・リサールが銃殺されて2年後の1898年米西戦争が勃発。混乱に乗じてホセ・リサールの薫陶を受けていた独立闘争リーダーのアギナルドが独立を宣言(第一共和国)し初代大統領に就任するも新たに米国がフィリピンを植民地化。 アギナルドの革命政府は1898年日本に支援要請。日本政府は対米配慮より支援できず、代わりに民間有志から武器弾薬が送られ陸軍予備役士官5人と在フィリピン邦人300人が義勇兵として革命政府軍の対米闘争に参加。しかし革命軍は破れアギナルドの盟友リカルテ将軍は日本に亡命した。
日本軍占領下でのフィリピン独立
太平洋戦争で日本軍が米軍を駆逐してフィリピンを占領すると75歳のリカルテ将軍はフィリピンに帰国。1943年10月に日本は軍政を廃し対日協力派のラウレルが大統領に就き独立を宣言(第二共和国)。 国会議長はベニグノ・アキノ。彼の息子がマルコス大統領配下に暗殺されたベニグノ・アキノ二世。その妻がコラソン・アキノ元大統領、さらにその息子がベニグノ・アキノ三世元大統領である。 ラウレル大統領は1943年東京で開催された大東亜会議にインド、満州、ビルマ、タイなどの代表と共に出席している。日本の敗色が濃厚になると駐比大使であった村田省三は懇意にしていたラウレル大統領、アキノ国会議長家族を日本に亡命させた。 ラウレルは戦後しばらくして政界に復帰、日本との賠償交渉の首席となったが日本の代表は奇しくも村田省三であった。お互いを信頼する双方の代表により交渉は進められた。