フィリピンの国民的英雄から始まる日本との友好の絆
フィリピン高校生必読の国民的叙事詩を出版
1887年2月、26歳の時に『ノリ・メ・タンヘレ』という小説をドイツで出版してフィリピン社会を描きスペイン支配やカトリック教会を批判。タガログ語版もフィリピンで出版されフィリピン人の国民意識を覚醒し後の独立闘争につながる。 その後30歳で『ノリ・メ・タンヘレ』の続編『エル・フィルブステリシモ』(題名は19世紀初めのラテンアメリカのスペイン植民地解放運動を意味する)をベルギーで出版。この2つの小説はフィリピンで高校の必読書に指定されている。 1887年6月フィリピンに帰国するも小説発禁と国外追放命令により翌年2月に米国経由で欧州に再留学すべく出国。
寄港地横浜で日本女性に運命の邂逅
2月28日に船の乗継のため横浜港に到着。翌日元旗本の貿易商の娘“臼井勢以子”(おせいさん)に偶然出会い恋に落ち、2日間の日本滞在予定が一か月半にも及んだ。ホセ27歳、おせいさん22歳。おせいさんは英語とフランス語を少し話せる教養ある女性だった。 ホセ・リサール記念館には“おせいさん”の大きな肖像写真とホセが描いた似顔絵が展示されている。そして彼女から習った日本語をホセが筆記したノートには端正な漢字とひらがなで書かれた単語や例文が並んでいる。 ホセは日比谷にあった東京ホテルに逗留しておせいさんと東京見物し早春の日光や箱根も楽しんでいる。現在日比谷公園の東京ホテル跡地にはホセの銅像が立っている。 ホセはスペイン人からも敬愛され、身の上を案じたスペイン公使館から日本に残り在留外国人のために診療所を開業するように勧められたが「フィリピンや世界各地にフィリピン独立のため自分を待っている同志がいる」と申し出を断って4月13日に米国へ向け出航した。ホセは日記におせいさんへの思いを切々と綴っている。 その後ホセは3年間欧州での亡命生活を経てフィリピンに帰国して独立運動に挺身、ミンダナオ島への流刑を経て35歳で処刑された。ホセは『日本でおせいさんと過ごした1カ月半は青春の至福の一章であった』と手記に残している。