中山美穂さん(享年54)永遠のスーパーアイドル“輝き続けた40年”日本中が「ただ泣きたくなった」
スーパースターの早すぎる死
突然の別れに、ただただ泣きたくなった――。 列島が激震したのは12月6日夕刻。俳優で歌手の中山美穂さんが、都内の自宅で亡くなったとの一報が駆け巡ったのだ。デビュー40周年を来年に控えた、54歳という若すぎる死だった。 【秘蔵写真】中山美穂 15歳アイドルから永遠のスーパーアイドルへ「輝き続けた40年」 「中山さんは自宅マンションの浴槽で着なしのまま前かがみになり、顔が水につかっている状態で発見されました。彼女の所属事務所によって、死因は入浴中の不慮の事故だったと発表されました」(全国紙社会部記者) 中山さんの自宅付近に住む70代の女性はFRIDAYにこう話した。 「お昼の12時を過ぎていたと思うのですが、消防車と救急車がサイレンを鳴らしてやってきて、それから5分ぐらいでストレッチャーで誰かが運び出されて……自宅は一見、ありふれた古めのオフィスビルなので、まさか中山美穂さんが住んでいるとは知りませんでした」 近隣に住む別の女性は、生前の中山さんの姿を目撃していたという。 「近所に『ライフ』と『明治屋』があるんですが、中山さんは庶民的な『ライフ』のほうで買い物をしていました。キャップを被っていましたが、特に変装する様子はなく、テレビで見る美しい姿のままでレジに並んでいたのが印象的でした」 姉のもとに駆けつけた実妹の中山忍(51)は、FRIDAY記者を含む報道陣に向け、涙を滲(にじ)ませながら頭を下げた。 「突然のことで、今お話しできることが何もありませんので……。改めてお話しさせていただくことがあると思いますので。遅くまで申し訳ございません……」 喪主は彼女が務めるという。スーパースターの早すぎる死は、世界中に報道された――。 ◆″育ての親″たちの思い 中山さんは’85年、『毎度おさわがせします』(TBS系)で俳優デビュー。同年に『C』で歌手デビューを果たすと、その年の『日本レコード大賞』の最優秀新人賞を受賞した。その後も、’92年の『世界中の誰よりきっと』と’94年の『ただ泣きたくなるの』がいずれもミリオンヒットを記録するなど、アーティストとしても才能を発揮。亡くなった当日も大阪でクリスマスコンサートを行う予定だった。レコード会社関係者が明かす。 「来年がデビュー40周年イヤーで、節目の年に向けて大規模なライブや撮影の仕事が色々と決まっていたんです。中山さんはやる気に溢(あふ)れていて、打ち合わせにも積極的に参加していた。体調が優れないといった話はまったく耳にしていなかっただけに、訃報に接して皆、呆然としています……」 中山さんの才能を見出し、初代担当音楽ディレクターを務めた元キングレコードの福住朗氏(75)もその一人だ。 「(中山さんの死は)テレビのニュースで知りました。『嘘だろ』と耳を疑いましたね。すぐキングレコードの同期に電話をして、『まいったね』と途方に暮れました。 彼女とは、デビュー前に知人を通して初めて会いました。無口だったけど、歌っている時の口の形がとてもきれいで、声も素晴らしかった。『すごく才能を感じさせるから、絶対デビューさせよう』と必死に上司を説得したのを覚えています。最後に会ったのは今年4月。広島県三原市で行われたコンサートを観に行ったんです。元気いっぱいで、アイドル黄金期の’80年代を走り抜けた時の姿そのままだった。終演後、楽屋へ挨拶に行くと、ドラマの出演や新曲の発表など、″まだまだやりたいことがたくさんある″と目を輝かせて話していました。最近は、私と会うたびに『体調は大丈夫?』と声をかけてくれていてね……。 私が逝って中山が葬儀で涙を流すシーンがあったら嬉しかったんだけど……順番が逆だよね」 デビュー当時から宣伝担当を務めた元キングレコード常務取締役の竹中善郎氏(69)は、「一般的なアイドルとは違うタイプだった」と明かす。 「普通のアイドルは挨拶から元気いっぱいだけど、美穂は静かで大人しい印象だった。ただ、他の子とは違う圧倒的な″何か″を感じたんだよね。CDデビューした時は映画『ビー・バップ・ハイスクール』や連ドラの撮影が重なっていて相当に忙しかったはずだけど、美穂は一切弱音を吐かなかった。芸能界で仕事をするにあたって、相当な覚悟を決めていたんだと思います」 トップアーティストとしての地位を確立したメガヒット曲『世界中の誰よりきっと』でコラボした『WANDS』の初代ボーカル上杉昇氏(52)は、「スターという言葉が似合う人でした」と往時を振り返った。 「中山さんは僕が学生の時から大人気のスターだった。『世界中の~』は″憧れの人″と仕事をした感じでした。彼女とはいろいろなところで歌わせてもらいましたが、どんな時でも皆さんが思う『中山美穂』そのままでした。彼女の後ろ姿からも、それは感じていましたね。 僕は当時あがり症で、取材を受けてもインタビュアーの質問にうまく答えられるかどうか自信がなかった。それで『美穂さん、助けてください』とお願いをしたことがあったんです。すると美穂さんは、僕に代わって全部答えてくれた。頼もしかったですね。 訃報に接したときは、しばらく理解が追い付かなかった。″どういうことなんだろう″ってしばらく呆然としていました。美穂さんが亡くなったことが、徐々にわかってきたという感じです。彼女は10代からずっと表現者として第一線を走ってきた。今はゆっくり休んでほしいと思っています。何より、『一緒に歌ってくださってありがとうございました』と言いたいですね……」 デビューから40年間、眩(まばゆ)いばかりの光を放ってきた永遠のスーパーアイドル。日本中がいまだにその死を受け止められないでいる。 『FRIDAY』2024年12月27日号より
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