丁稚奉公から三大米穀商へ 相場の失敗をバネに躍進 藤本清兵衛(上)
明治初期の頃、三大米穀商として名を馳せた藤本清兵衛。子どもの頃、米穀商の丁稚奉公に出された当時は川勝丑之助という名前で、なかなか賢い子だと主人に目をかけられていました。25歳で独立し、相場に失敗するときもありましたが、元来負けず嫌いな性格から、その機会をバネにして躍進の力としました。藤本の相場人生前半を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
米穀仲買商、「東の三井、西の藤本」
明治、大正、昭和初期の経済人357名の業績を収めた奇書『財界物故傑物伝』は藤本清兵衛についてこう記している。 「明治初年の米穀仲買商として諸戸静六、阿部彦太郎と並んで堂島に雄将の名を馳せ、その取引において全国の首位を占めたものに藤本清兵衛君がある」 米の集散地として知られる桑名に本拠を置く諸戸清六、堂島の大仕手阿部彦こと阿部彦太郎、そして藤本清兵衛を加えた三巨人は明治中期を代表する米穀商であり大相場師である。中でも藤本は事業家としての才覚に恵まれ、「東の三井、西の藤本」と言われた時代もある。 北浜の生き字引とされる松永定一はこう書いている。 「明治中期における藤本商店といえば、米の海外輸出はじめ、政府の備蓄米をも取り扱い、東京の三井、三菱、大倉など向こうに回して、関西における御用商人の尤(ゆう。非常に優れているさま)なるものがあった。株式は島徳仲買店第一の得意先であった」(『新・北浜盛衰記』) 米の仲買という極めて投機的な商いを本業としながらも、政府の御用商人として安定的な収入源を持ち、高い信用を得ていた。さらに北浜の株式市場にも多額の資金を投入していた。上記の引用文中、島徳仲買店とあるがこれは北浜切っての錬金術師、島徳蔵(のちに大阪株式取引所理事長)の営む株式仲買で、ここで大きな商いをやっていたというから、藤本の雄姿がしのばれる。 藤本が少年時代、大阪の米穀商に奉公していた当時の働きぶりについては歴史書にこう記されている。 「主家のこころにかないて、追い追い取り立てられるに従い、商売の勝手も分かれば、分かるに応じて売買の道、駆け引き万端に注意して朋輩中に目立つほど賢きさまの見えるにぞ、主人は深く目に懸けて、またとなき者に思い、17歳の時元服とて角髪(つのがみ)を剃りて、その名さえ幸助と改め、14.5年間主家へ忠勤に励み、商売上に苦心せり。かくて25歳となりし時、名を清兵衛と改めて独立し米商を営めり」(柳原忠造著『帝国実業家立志編』)