ものまね一筋45周年! デビュー当時の「コロッケ」が和田アキ子と中尾ミエから受けた“愛あるダメ出し”の言葉とは
「もっとこぎれいにした方がいいぞ」
「中尾さんからは『もうちょっと清潔感がないとダメだよ』とよく言われていました。当時の僕はカーリーヘアでラメの衣裳。それに化粧もしていました。あの頃、化粧している男の人なんて少なかった。明らかに“夜の臭い”がプンプンしていたんですね。それもそのはず、ショーパブで働いていたんですから。朝方まで働いて、そのまま収録に臨むこともありました。お酒の匂いがしていたこともあったかなぁ。そうしたところを見逃さず、しっかりと注意してくださったんですね」 しかもこの頃は、熊本弁が丸出しになると恥ずかしいので、ネタの最中も女性言葉で話していた。派手目の衣裳に化粧、そして女性言葉……。中尾だけでなく、山田康夫も「もっとこぎれいにした方がいいぞ」と言ってくれた。重鎮の和田アキ子からも、「アンタ、汚いで。清潔にした方がいいで」と、貴重なアドバイス(? )を受けた。 「ただ面白いことをやるだけではダメで、どうしたら芸能界やテレビの世界で仕事をこなしていけるのか、大先輩方が貴重な助言をくれたおかげで、僕も45年間、この世界で仕事をこなすことができたと思っています」 ちなみに「コロッケ」という芸名は、このショーパブ時代に考案したものだ。店の名物マスターとして知られていた「ロッキーさん」に後ろ姿が似ており、「小(こ)ロッキー」と呼ばれていたことに加え、表情がコロコロ変わることから「コロッケ」になった。 「貴明や憲武と会うと、挨拶代わりに必ず言うのは『俺たち、ちゃんと残っているよね~』なんです。同じ芸能界でも僕ととんねるずはジャンルが違います。それでも、お互いずっとやり続けてきたことを話せる相手がいるのは、本当にありがたいことです」 コロッケは1987年、前出の「爆笑! スターものまね王座決定戦」で優勝。清水アキラ、栗田貫一、ビジーフォー(グッチ祐三・モト冬樹)と共に「ものまね四天王」として、全国区の人気者になる。この当時は、数々の“伝説”があるそうだが、 「一番辛かったのが、昼間に札幌でショーやイベントを2本こなし、夜に博多でショーを2回というスケジュールをこなしていた頃です。札幌が終わると、福岡への直行便がないので、大急ぎで羽田に飛んで、ギリギリで博多に到着する。四天王になる前、スナックをまわっていた頃に1日で8か所というのもありましたけど(笑)。埼玉、千葉と回って夜は新宿のスナックやクラブを朝まで回るという。でも、移動距離がある分、札幌~博多はつらかったですね。朝から何処へ行ったのかも記憶も定かでなく、夜になったら博多でラーメンを食べていた、という感じで」 この当時、年間で200本近いショーやイベントをこなしていたというが、 「あの頃、歩合じゃなくて給料制だったんですよ(笑)。スナックまわりの頃から、かなりの利益を事務所にもたらしていたはずですけど、僕が受け取るのは毎月決まった金額で、数十万円でした」 今となってはいい思い出だが、それでも45年もの長きにわたって、常に第一線に立ち続けるには大変な苦労があるのではないか。その辺りを聞いてみると――。 「いやいや、僕がものまねをさせて頂いている五木ひろしさんなど、デビューから60年を超えていらっしゃいます。美川憲一さんも同じ。皆さんに比べたら僕なんか、まだまだ。ただ、確実に年は取ってきているので、身体のケアは注意するようにしています」 体調維持、元気の秘訣として、酒を止めたという。