八神純子『みずいろの雨』大ブレイクのきっかけは『ザ・ベストテン』「今週のスポットライト」出演「“ジュリーが見ているな”って、緊張しましたね」
『みずいろの雨』『パープルタウン』といったポップスで日本のニューミュージックシーンに登場した八神純子さん。聴く人を魅了するハイトーンボイスは今も健在だ。ブレイクから活動休止を経て、また再びステージへ。7月には高崎芸術劇場でライブが開催される。デビューから45年間にも渡る音楽人生の転機とは?【第1回/全4回】 ■【画像】『みずいろの雨』八神純子が「30年以上前に始めたこと」とは?「THE CHANGE」オリジナル動画 「この砂時計が寿命だとしたら、これだけもう命が残り少なくなっているってことでしょう。怖いよね」 「THE CHANGE」のシンボルともいえる砂時計を手に、こう語るのは歌手の八神純子さん。『みずいろの雨』、『パープルタウン~You Oughta Know By Now~』をヒットさせ、1980年には『第31回NHK紅白歌合戦』に初出場した。現在も歌い続ける八神さんに、自身のCHANGEを聞いてみた。 「ステージで、生バンドで歌ってみたかった」。その一心だけで応募した『第8回ヤマハポピュラーソングコンテスト』(1974年・通称ポプコン)で優秀曲賞に入賞する。そこから彼女の音楽的才能が開花していった。 「それまでは歌う時は、従妹と二人でハモるくらいしか経験が無かったんです。でもポプコンに出場して全国大会に出れば、管楽器や弦楽器のあるバンドで歌えた。そのステージが踏みたくて、曲を書きました。ポプコン以外にも、『第5回世界歌謡祭』(1974年)でも本選に残って、武道館で歌いました」
10代の女子高生が南米の音楽祭に出演!歌う喜びが芽生えた
二度にわたる『世界歌謡祭』の出場がきっかけとなって、八神さんは高校生の時に『第17回チリ音楽祭』(1976年)へも出場した。 「チリ音楽祭も、オーケストラをバックに歌いたいがために、応募したんです。カセットテープに録音した音源を、小包で送りました。今みたいにメールでのやりとりができなかった時代なので、毎日、郵便受けを見に行ってなにも届いていなくて落胆していました。何か月も音沙汰がなかったんですが、ある日、エアメールが届いた。あの時のワクワクって、思い返すと素敵だなって思いますね。今でもあの時の気持ちが蘇ります」 初めての海外旅行が、『国際音楽祭』への出場。慣れない地での歌唱はどうだったのだろうか。 「その当時の私は、ぜんぜん英語がわからなかったから、事務所が通訳もつけてくれた。初めての海外で歌うことに、怖さはまったくありませんでした。怖さよりも好奇心の方が勝っていましたね。でもいざ出場してみたら、私のようなアマチュアがいなかった。全世界から作家とプロのシンガーが出場していて、その中で歌ったんです。難しいなって感じながらもすごく良い経験でした」 コンテストへの出場を経て、20歳の誕生日に『思い出は美しすぎて』でプロデビューした。 「ちょうどフォークブームが落ち着いて、ニューミュージックが流行り始めた頃でした。同時期のアーティストと比べると、私はよくテレビに出されていたんです。当時はプロモーション戦略で、中島みゆきさんのようにテレビにはいっさい出演しないアーティストも多かった。私自身にはそんな意識はなかったのに、当時は完全にアイドル扱いをされてしまって。そういうのは得意ではなかったので、嫌だな……という思いを抱きながら活動していました」 80年代は、歌謡曲全盛期。TBS『ザ・ベストテン』を始めとして、日本テレビ『ザ・トップテン』など音楽番組も毎日のように放送されていた。その中で八神さんは、数多くの人気番組に出演していた。