【記憶~終戦80年】それぞれの「昭和20年8月15日」(千葉県)
ラジオからの玉音放送の音声に、幼くも戦争が終わったことを喜んだ。終戦を告げられ、胸をなでおろした。米軍の爆撃機に地上から叫び声をあげた――。あれから80年。「あの日」はどこにいて、何を心に映したのか。安房の人それぞれの「昭和20年8月15日」。
自宅で玉音放送
館山市の太田ミツさん(85)は、当時5歳。現在の館山市神余にあった自宅で、ラジオを聞いていた。近所の人たちも集まっていた記憶がある。ラジオから流れてくる声が何を言っているのかはまったくわからなかった。だが、大人たちの会話から、戦争が終わったということが、幼い子どもながらに察知できた。 戦争中は、米軍による艦砲射撃や、夜、轟(ごう)音を立てて飛んでくる米軍機に、家の敷地内にあった防空壕(ごう)の中でおびえた。戦争が終わったことが、ただひたすらうれしかった。
敗戦に動揺
館山市の草刈董(ただし)さん(94)は終戦時、旧制中学の4年生。銚子で木造船造りに動員されていた。8月14日は工場に向かう際、軍の将校から翌日昼ごろのラジオ放送を必ず聞くように指示され、この日と翌15日は作業がなくなった。 何の放送なのはわからなかったが、「神風」が吹いて戦況が良くなった、との報告だと思っていた。八日市場(現匝瑳市)のせんべい屋のラジオで聞いた放送は、ポツダム宣言を受け入れ、戦争を終結させる、と天皇が詔書を読み上げる玉音放送だった。 「当然、日本が勝つ」と思い込み、非常に高い高度を飛んでいく米軍の爆撃機に向かって、地上から「この野郎」と憎しみを込めて叫んでいた草刈少年は激しく動揺した。父親が落ち着かせてくれたことが、今も記憶に残る。
「戦争終わった」
南房総市の石﨑政彦さん(97)は当時、日本統治下にあった台湾・台中の農林専門学校2年生。18歳だった。終戦は、宿舎で担任の教師から告げられて知った。 戦争中は勉強ができた記憶はほとんどない。入学した年の暮れから、台中の西にある鹿港(ろっこう)という町の海岸線で、塹壕(ざんごう)掘りに動員され、連日朝から夕方まで、スコップで土を掘る作業をさせられた。穴掘りにくたびれていたので、終戦には、とにかく「やれやれ」と思った。 4日後、学校に戻ると「中国が接収にくる」という話が飛び交い、日本の軍人が学校の書類を運び出していた。学校の兵器庫にあった兵器類の一部は「中国政府に渡した」といううわさもあった。