【記憶~終戦80年】それぞれの「昭和20年8月15日」(千葉県)
敵兵襲来に備え
南房総市の鎌田英雄さん(89)は8月15日、旧平群村(現在の南房総市富山地区)の実家から見上げた空の光景を鮮明に覚えている。暑くて、雲ひとつなかった。 昼過ぎ、出先で玉音放送を聞いて帰ってきた父親が家族全員を集めた。「敵兵が来たら、裏山のマツの根を掘った場所で集まろう」。だが、平群に米軍が来ることはなかった。 山あいの集落である平群は、戦争中ものんびりとした雰囲気だった。どこか戦争は人ごとのような感覚だった。だが、戦地から帰ってきた人の表情にはやる気が見られず、麻薬に手を出す人もいた。あの戦争を振り返り、紛争が絶えない今の世界に、「人間は何度、同じことを繰り返せば気が済むのだろうか」とつくづく思う。
「これから」に恐怖
鴨川市の中嶋八良さん(94)は、終戦時14歳。旧制長狭中学(現長狭高校)の3年生だったが、3年生になってから市内のニッケル工場に動員され、勉強どころではなかった。終戦間際になると米軍の機銃掃射にさらされた。地下壕に逃げようとしたが、大人たちにしかられるため、工場の一角でうずくまって攻撃が収まるのを待った。 玉音放送は自宅で姉や近所の人たちと聞いた記憶がある。ラジオは雑音が多く、聞き取りにくかったが、連合国に無条件降伏したことは理解した。戦争に負けたことよりも、「これからどうなるのか」ということが怖かった。 戦後は大学医学部で40年間、免疫血液学の研究に当たったが、当初に痛感したのは戦争の影響で情報や資材がなく、医療の研究が大きく遅れていたことだった。取り戻すのに20年以上かかり、その間、救えた命がどれだけ失われたかを考えると今も悲しさがこみ上げる。