アーネスト・サトウが著した「英国策論」、幕府に大きな衝撃を与え、倒幕派の精神的支柱となったその内容とは?
(町田 明広:歴史学者) ■ 英国策論の成立とサトウの動向 1865年(慶応1)4月1日、アーネスト・サトウは通訳生から通訳官に昇進した。イギリス公使館に、初めて日本語を自在に駆使する外交官が誕生した瞬間である。サトウの同僚である、3歳年少のアレクサンダー・フォン・シーボルトは、1859年(安政6)に再来日した父シーボルトに連れられ、13歳で日本の地を踏んでおり、日本語の会話に能力を発揮していた。とは言え、サトウはシーボルトより、読む・書くという点でも遥かに優秀であった。 【写真】「敷和」と書かれたサトウ直筆(署名は「静山」)の揮毫 サトウは西国での情報収集のかたわら、日本の書物の翻訳や日本語辞書の編纂を行った。なお、サトウは「薩道懇之助」「薩道愛之助」等の名前で、日本人の間で周知の存在であった。 1865年7月、第2代駐日公使としてパークスが横浜に到着した。 11月、サトウは4ヶ国代表による大坂での条約勅許・兵庫開港・関税改訂交渉のため、パークスに同行して初めて兵庫に上陸した。 このように、順調にキャリアを積んでいたサトウは、日本来日からこれまでの体験や見聞を踏まえ、1866年(慶応2)3月16日から5月19日にかけて3回、横浜で発行されていた週間新聞『ジャパン・タイムズ』に無題・無署名の論説を発表した。サトウの日本語教師である、徳島藩士沼田虎三郎のサポートを受けて翻訳し、沼田を介して藩主蜂須賀斉裕の閲覧のために提供した。 この写本が「英国策論」として広範囲に流布し、1867年(慶応3)以降には、印刷されたものが大坂や京都の書店で販売されるに至った。「英国策論」は、朝廷・諸藩・幕府といったすべての勢力に広く知られ、例えば『近衛家書類』『中山忠能履歴資料』に写本が収録されている。また、1866年12月3日にサトウが宇和島を訪問した際、伊達宗城は既に読んでいることを、直接、サトウに話している。
■ 「英国策論」と幕府・朝廷の反応 老中稲葉正邦は一橋慶喜宛に上申書(1866年12月30日)を提出し、外国公使謁見に外様大名を列席させることを提案した。その中で、「日本語に精通するサトウ著述の「英国策論」についての伝聞」を伝えている。 それによると、サトウは国内の状況について、これまでの幕府の失政を明らかにするとして、幕府の権威などないとの事例を様々書き連ねた。そして、日本が真に開化の進歩を遂げるためには、諸侯会議の国体に変更することが喫緊の課題であると弁論している。 さらにサトウは、「英国策論」をパークスに差し出しただけでなく、各国公使へも回覧しており、異存がない場合は欧州諸国の公式文書にしようとしており、万が一そのような展開になってしまうと、容易ならざる大害となり心配であると、過剰なまでの警戒感を吐露している。幕府の中枢にある老中の意見として、軽視できないものである。「英国策論」は、幕府に大きな衝撃を与えたのだ。 また、「岩倉具視関係文書」(国立公文書館内閣文庫蔵)の中に、英国士官サトウ著「策論」が存在し、末尾に「薩摩藩某翻訳」と記載されている。廃幕を志向する薩摩藩にとって、朝廷内の最大のパートナーが岩倉具視であり、薩摩藩から「英国策論」がその岩倉に渡っていることは重要である。 このことから、「英国策論」は廃幕を志向する勢力にとって、イギリスの後ろ盾を期待できる精神的支柱ですらあった可能性を指摘できる。「英国策論」は、想像を超えて様々な方面に流布しており、老中がイギリスの見解と見なすほどの公式なレベルのものと捉えられ、これ以降の政局に極めて甚大な影響を与えたのだ。