「もう帰れないかも…」能登全員避難の孤立集落 住民の切実な思い
■必死に走ったあの日 「津波が来る!」
地震があった元日、谷内さん夫婦は自宅で、金沢近郊から帰省していた息子(39)と一緒に正月を過ごしていました。 自宅は海の目の前。大きな揺れのあと海の水が引いたため、急いで山の上に登りました。
谷内さん 「津波が来る!上に上がらないと!と。私は足がよくないもので、二人(夫と息子)に抱えてもらって必死に山を登った。足がガクガクして、涙が出た」
■寝る場所すらなかった自主避難所 帰省者多く混雑
避難所に行く道路も通れなくなっていたため、人々は自主的に近くの公民館へ。帰省してきていた人が多かったため、公民館には100人ほどが集まり混雑していました。正月のために用意していた料理などを皆で持ち寄り、過ごしました。 横になるスペースさえなく、谷内さんは2日間、座って寝たといいます。体調を崩してしまい、その後3日ほど息子の車で車中泊。そして、余震は続いていましたが体調が優れなかったこともあり、地震から一週間足らずで自宅に戻りました。散乱した物の一部を片付けましたが、暖房は使えず、地震で建て付けも悪くなっていて、余震が来る度に怖くておびえていました。
谷内さん 「誰とも電話が通じない、連絡がとれない」「あの10日間ほど、テレビも見たことがない、新聞も読んだことがない。地震の様子も分からなかった」
しかしその後、孤立していた集落の全員が集落の外に避難するよう指示があり、自衛隊のヘリで数人ずつ移送されることに。何日にもわたる「集落全員避難」が行われました。
■二次避難先は約160キロ離れ… 初めて集落の外で暮らす人も
谷内さん夫婦など集落の一部の人は、自宅から約160キロ離れた県南部の加賀市にあるホテルが二次避難先となりました。谷内さん夫婦より高齢で、これまで集落の外で生活したことがない人も多いといいます。
谷内さん 「ホテルにいられることは本当にありがたい。でもみんな帰りたがってる。(集落では)畑もあり海もあり家もあり、それで生活できていたけれど、今はそれもない。高齢だと避難先で働くこともできないし、気持ち的にも金銭的にも問題が出てくると思う」