「ここは娘に近づける場所」原発事故で帰れないふるさと 1年2組の教室には亡き娘の“あの日”がそのまま残っている #知り続ける
汐凪の花園
その年の4月の終わり、自宅跡地の向かいの田んぼ一面に、菜の花が揺れていた。青空の下、春の光に黄色が鮮やかに輝き、海からの風を受ける。木村さんが、秋から冬にかけて育ててきた。手作りの看板には「汐凪の花園」とあった。 「汐凪と遊んでいるような気持ちでやっているんで。って言いながら、つらくなるけどね」 笑顔が崩れ、涙が頬を伝う。照れくさそうに笑い、日差しに目を細める。 「いいですよね、風に揺れて。みんな喜んでいるみたいで」
長女・舞雪さんの13年
長女の舞雪さんは、震災の時、熊町小学校の4年生。教室には、今も、ランドセルや手提げ袋などが残っていた。 自分の席に座り、ランドセルからプリントを取り出して、1枚ずつ広げていく。手を止めてじっと見つめ、おかしさを堪えきれないというように笑う。 宿題をしなかったことで母親に叱られ、家から閉め出された日のことを思い出したのだ。悲しかった記憶のはずが、なぜか懐かしく、愛おしい。 母親の遺体が見つかった時は、我を忘れるほど泣いた。それ以来、舞雪さんは一度もそのことで泣いたことはないと、木村さんは話しているが、本当はそうではなかった。 「避難していた小6の頃が一番つらくて。お母さんとおじいちゃんと汐凪が津波にのまれるっていう想像を何度もしちゃって、その度に、お父さんに隠れて泣いたりしていました。今も親の前で泣くのは苦手で、恥ずかしいとか、プライドみたいなやつです」 この日、同級生と再会し、お互いの成長を確かめあった。家族の死と一人で向き合おうとした日々は、記憶の奥底にしまいこんだ。 「地震も津波も自然のことだから仕方がない、みんな自然のなかに帰っていった。今はそう思えるようになって、区切りをつけて、受け止められている気がします。」
13年越しのホワイト・デー
学校開放2日目の2月3日。木村さんは、1年2組の教室で汐凪さんの同級生と再会した。 汐凪さんの1つ前の席だった川木さん(20歳)は、机の中のものを懐かしそうに、時に不思議そうに眺めていた。 「震災の後、1年ぐらいして、突然、汐凪ちゃんのお葬式に行くってなって。亡くなった実感はわかないですね。学校では、よく女の子のグループで遊んでいて、とにかく明るい子でした。」 少し照れた様子で言葉をつなぐ。 「バレンタイン・デーに、クラスのみんなにチョコレートを配って。僕ももらいました。」 別の保護者が「そういえば」と話す。「うちの娘と汐凪ちゃんが約束していたの。チョコレート一緒に作ろうって。」 木村さんは、初めて聞く話に、笑みを浮かべ、教室には笑い声が響いた。 陸真さんは、帰り際に「これ汐凪ちゃんにあげてください」と、お菓子を渡した。 次に登校するはずだったのは、3月14日。渡せなかったバレンタイン・デーのお返し。 木村さんは、汐凪さんの机にお菓子を置くと、こみ上げてくる思いをこらえて、教室を後にする陸真さんを笑顔で見送った。 「汐凪が、みんなの記憶のなかにいると思うと、嬉しいね。この教室も、当時の状態で残っているから思い出せることもあって、だから残してほしいですね」 同級生たちは「汐凪ちゃんと一緒のままで」と私物は持ち出さなかった。1年2組の教室は、あの日のまま、新たな時を刻み始めた。町は校舎を保存する方針を示しているが、具体的には何も決まっていない。