東広島市で飲まれていた井戸水はなぜ汚染されたのか? 「大量の泡消火剤を処分した」米軍・川上弾薬庫との関係は?
自宅の井戸から10000ナノグラムの汚染が!
その一軒、道代さん(仮名、78歳)の自宅にも2本の井戸がある。市の調査で1本から1,300ナノグラムが検出された。 もう1本は飲用には使っていなかったため測ってもらえず、自費で業者に依頼したところ、5桁の数字が出た。 <10,000ナノグラム> 炊事、洗濯、風呂、庭の水やりまですべて井戸水でまかってきただけに、衝撃は大きかった。活性炭による除去はできないかと水道業者にたずねると、こう言われた。 「活性炭で取れるのは8割ほどなので、どうしても2割ほどは残ってしまう。濃度にすると2,000ナノグラムということになります」 活性炭を使ったとしても、なお国の目標値の40倍もの汚染が残ると聞き、あきらめた。 「米軍のほかに汚染源は考えられないのに…。また、水を奪われてしまった」 思い浮かんだのは、原爆投下直後、水を求めて川に殺到した人々のことだった。 道代さんは1942年春に広島市内で生まれ、原爆が落ちたときは3歳だった。実家は原爆ドームから川をはさんで300メートルほど離れたところにあった。 ただ、印刷業を営んでいた父は、出張で広島を離れていた。道代さんも母に連れられて福岡の祖父母の家に行っていて難を逃れた。翌日、母とともに広島に向かうと、一面の焼け野原で鉄道も止まっていったため、再び福岡へ戻った。 それからしばらくして、当時、広島市内にいたという叔父が父に連れられて福岡にやってきた。布団に横たえられた叔父の裸足の足の裏は真っ黒で、雑巾で拭いても落ちなかった。叔父はまもなく息を引き取った。 原爆という名前を知ったのも、詳しい経緯もあとから聞かされた。ただ、焦げた足の黒さだけははっきりと覚えている、という。 1972年、夫ともに川上弾薬庫近くに移り住んだ。水道が通っていなかったため井戸を掘った。その後、自宅を建て替えたときに、もう1本も掘った。 「うちの井戸は、亡くなった主人が残してくれた財産だと思っていました。水が、ほんとにおいしいんですよ」 その飲み水が汚された。でも、米軍は、消火活動も消火訓練もしていないという。ではなぜ、8200リットルもの泡消火剤を処分したのか。そもそも、なぜ大量の泡消火剤を保有していたのか。