富士GCシリーズでの活躍|「ロータリーの語り部」松浦國夫さん、創成期のレーシング活動を振り返る Vol.4
東洋工業(現・マツダ)に入社以来、ロータリーエンジンひと筋、それもほぼレーシングロータリーの開発に専従してきた松浦國夫さんに、活動初期の話を2017年にうかがった。そのお話を4話構成でお伝えする。ロータリーエンジンの開発が紆余曲折の連続だったことはよく知られるとおりで、モーターレーシングは性能の極限領域を確かめる目的で積極的に活用された。しかし、すべてが未知のエンジン。通常では思いもよらぬことが、当たり前のように起きていたという。 >>【画像11枚】787B用R26B型4ローターエンジンなど 【「ロータリーの語り部」松浦國夫さん、創成期のレーシング活動を振り返る】 ロータリー世代のドライバーは多い。その代表格が中嶋悟や関谷正徳らといってよいだろう。とくに中嶋は、サバンナのみならず、GCにステップアップしてからもロータリーエンジンを使い、ロータリーエンジン躍進の原動力となっていた。 ロータリーエンジンは、搭載車両としてのみ活用されるのではなく、エンジン単体としても優れたコンペティション性を秘めていたわけである。 「軽量、コンパクト、高出力性がロータリーの特徴でしたから、当然、純レーシングカーへの搭載も考えました。実際、1970年にはベルギーのチームがシェブロンB16に10A型を搭載してル・マンに参戦。マツダと直接は関係のない参戦でしたが、立ち会いのためル・マンまで出向きました。ロータリーエンジンの可能性を生かす意味で、前向きな活動だと思いましたよ」 軽量コンパクト、ハイパワーという視点では、1971年に始まる富士GCシリーズは、ロータリーエンジンにとって格好の挑戦材料になっていた。 「スポーツカーシャシーへの搭載は、ロータリーエンジンのハイパフォーマンス性を生かすうえで、非常に有効な方法だと思いましたね。フォーミュラに積んでもよかったんですが、F2、F3はレギュレーションでレシプロエンジンのみと規定されていたので、富士GCシリーズは好都合でした。ただ、ハウジングを連結して組み立てるロータリーエンジンゆえの剛性的な弱さは注意事項でしたね」 実はロータリーエンジン、富士GCの創成期から最終期まで、最も長く使われたエンジンといってよい。GCは1971年にシリーズ化され、当時のF2(日本ではF2000)規定に準じた2Lエンジンで企画され、トップフォーミュラのF3000化に伴い、1987年からは3Lエンジンで戦われるようになっていた。 ロータリーエンジンは、GCではなかったが片山が国産KEシャシーとの組み合わせで1971年の鈴鹿戦(鈴鹿グレート20)を走っていた。さらに1972年以後になると10A型、さらに1973年からは従野孝司が国産マナシャシーと12A型の組み合わせでGCシリーズに参戦。13B型がリリースされるとこれに切り替わり、1978年には当時最強の2Lレーシングエンジンと言われたBMWを抑えて、富士GCで優勝を遂げるまでにその実力を伸ばしていた。 「BMW相手に勝てるエンジンとなりました。BMWエンジンは、年間コストが最低でも数百万円と言われる時代でした。たしか2回のオーバーホールが付いた料金だったと思いますが、ロータリーはこれの半分で済んだ。だから、プライベートユーザーが多く使ってくれました。ただ、やはりレシプロとの基本形式、構造が異なるエンジンなので、レシプロに対して優位に立ち過ぎると、レギュレーションで性能が規制される傾向にはありましたね」 独特の破裂音となる排気音が問題視され、音量規制を積極的に進めたという苦心談もいろいろ聞くが、レースの場数を踏むことで、メカニズムに関する信頼性や耐久性を高めていったことは間違いなく、たとえばGCシリーズに投入された20B型3ローターエンジンも、元はグループCカーマツダ757からの転用だった。このGCでの経験がグループCカーへのフィードバックとなり、4ローターの26B型へと発展してル・マン優勝に結び付くことになるのだから、連綿とした技術の流れを感じざるを得ない。 今回は、創成期のレーシングロータリーについてのエピソードを伺ってみたが、レーシングロータリーの進化は、RX‐7によるIMSAラウンドへの進出が大きな飛躍点となるので、このあたりについては、機会を改めてお伝えしたいと思う。 初出:ノスタルジックヒーロー 2017年8月号 Vol.182 (記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
Nosweb 編集部