「落合博満は巨人軍に裏切られたのか」落合が否定した「巨人退団会見で涙」報道…清原FA騒動、なぜ43歳落合博満は現役引退を選ばなかった?
“最後は巨人軍に裏切られた”
清原が巨人に夢を見たように、落合もまた心の底から長嶋茂雄に憧れていたのだ。だから、OB連中にどれだけ批判されようが、背番号33を胴上げするのが自分の使命だと巨人移籍を選択した。 試合中に負傷した太ももをテーピングで何重にも巻いて、文字通り這ってでもグラウンドに出ようとした10・8決戦。亀裂骨折した小指が完治していなくとも、選手生命を懸けてバットを振り無理に間に合わせた日本シリーズ。それはオレ流の20年間の現役生活の中でも、三冠王の目標には見向きもせずチームを勝たせることにすべてを懸けた異質の3年間だった。だが、清原を獲るから、もうおまえはいらないという。これで感情的になるなという方が無理な話だ。稀代のバットマンが3年間全力で尽くして、2度のリーグ優勝と長嶋監督初の日本一をもたらしながら、最後は巨人軍に裏切られたのだ――。 しかし、屈辱にまみれた落合はそこで悲劇の主人公を演じて同情を引くことも、球団フロントと刺し違えて、現役を引退することもしなかった。1997年シーズンに向けてヤクルトと日本ハムが獲得の意思を表明しており、契約してくれる球団がある限り、そこでプレーするという己の信念に従ったのだ。無情にも長嶋茂雄のもとで野球人生を終えるという夢は散ったが、オレ流を貫き通したのである。退団会見で涙を流したと書かれたら、「鼻をかいただけ」と否定する。そして、言うのだ。「オレは、巨人に勝ったのさ」と。
「だから、オレの勝ちだよ」
「記者会見の時は俺、醒めていた。もう完璧に醒めていた。やめるんだもの。でも、野球をやめるわけじゃない、巨人をやめるだけなんだ。解雇じゃない、退団なんだ。球団からクビを切られたわけじゃない、自分からやめたんだ。だから、俺の勝ちだよ」(不敗人生43歳からの挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館) いわば、落合は土壇場で「巨人」ではなく、「野球」を取ったのだ。それは94年オフにFAで中日入りの話が出ても、読売本社から「巨人の原で終わってくれ」と懇請され残留を決断した原辰徳とは対照的な人生観だった。現在も巨人にFA移籍してきた多くの選手が、引退後も指導者として雇用されている。もちろんそういう生き方が悪いわけではない。だが、落合はそれをよしとしなかった。退団時に渡邉社長から「また読売グループとお付き合いを願おうと話した」と将来のコーチ手形を提示されるも、再び巨人のユニフォームを着るのではなく、のちに中日の監督として巨人と戦う道を選ぶのだ。 94年から96年にかけて、巨人で352試合に出場。スタメンの四番としては331試合を数える。在籍3シーズンの通算打撃成績は、1222打数362安打の打率.296、53本塁打、219打点だった。 果たして、オレ流は勝ったのか、負けたのか――。栄光と混乱と狂熱をもたらした、巨人軍と落合博満の3年間は、こうして終わりを告げたのである。 <前編、中編から続く>
(「ぶら野球」中溝康隆 = 文)
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