ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (16) 外山脩
輝きの表裏
ところで右のパイオニアたちの内、先に触れた様に水野龍、上塚周平、平野運平の三人が後世、輝いている。何故だろうか? 実は、その根拠がハッキリしないのである。そこで三人のその後を、概観してみる。━━ 水野龍は、日本とブラジルの間を行き来しつつ、移民を送り込んだ。その初期は不祥事が多発、世評はひどく悪かった。 が、執拗にこの事業を継続した。 しかも六十代半ば近くになって、家族を伴い移住してくるという飛躍を演じた。悪評も薄れており、さらに自分が送った移民の後を追っての、この行動が人を喜ばせた。「移民の開祖」と敬称する者すら現れる。 上塚周平は、皇国殖民やその後身の竹村殖民商館の現地代表を勤め、移民の面倒をよくみた。やがて南樹や香山六郎らと共同で植民地を造った。時期的には別章で紹介する青柳郁太郎や左記する平野運平のそれより遅れてはいた。が、日系社会の植民地建設時代の到来に、拍車をかけた。 上塚はさらに移民の一部が窮迫した時は、日本政府から低利の救済資金を引き出した。 上塚にも敬愛者ができた。水野の人気が出たのは晩年であるが、上塚は着伯の数カ月後からである。やがて、彼らは上塚を「移民の父」と名づける。 平野運平は、最初、通訳をつとめたファゼンダで腕を振い、副支配人に抜擢された。次いで自分で植民地を造った。青柳より遅れたが、自力による植民地としては初の事例である。その活躍ぶりでヒーロー視された。が、植民地は風土病で大量の犠牲者を出し、自身も罹病、没する。 平野にも、早くから敬愛者が生まれた。死後、人気は上塚を凌ぐほどになり「悲劇の主人公」と呼ばれた。 三人の事績は、この程度である。それぞれ何事かを成した、あるいは成そうとした━━とは言えるであろうが、偉業というほどではない。 思うに、この三人が輝いたのは、その敬称によるところが大きかったであろう。移民の開祖とか移民の父、悲劇の主人公といった言葉のドラマチックな響きが、後世の人の心に自然に浸透、記憶され、特別の人間と錯覚されたのであろう。 さらに水野、上塚は既述の様に、日本政府から叙勲されている。勲六等旭日章であるが、戦前のそれである。ランクは戦後のそれより、かなり高く見る必要がある。これが二人の箔づけとなった。 平野は「次々に死んで行った入植者の後を追って、三十二歳の若さで自裁に似た」最期を遂げたことが、庶民の心を感動させ続けた。何しろ、それは浪曲になり━━日系社会に居ったセミ・プロ級の浪曲師により━━演芸会の舞台の上で口演されたほどなのである。 しかし、実は三人に対する敬称は、最初は一部の人間が軽い気持ちで創作したものに過ぎなかった。あとは風が運ぶ噂話が、泡沫のような人気を生んでいたに過ぎない。 水野、上塚に対する叙勲も、特定の人間の運動によるものであった。平野の最期も人を感動させるようなものではなかった。 しかも三人には裏面があった。それが世間に余り知られなかっただけである。 無論、人間誰しも長所と欠点を併せ持ち、成功したり失敗したりしながら生きている。表も裏もある。そのこと自体は構わない。 が、放っておくと、彼らの関わった歴史まで誤伝されてしまう。すでにそうなっている。これは好ましくない。 この三人と対蹠的だったのが、南樹である。 南樹は誰よりも早く、単独挺進して、後続部隊のために道を切り拓いた。上塚や香山と共同で植民地を造った。さらに、米国の排日に嫌気がさした同地の日本人のブラジルへの再移住に協力のため、訪米している。多くのパイオニアの足跡を発掘、記録に残した。 その事績は、三人にひけはとらない。が、輝くことはなかった。 彼は一匹狼的な性格で、博打好きだった。金銭面で他人に迷惑をかけたこともあった。ために敬愛者はできず、従って、その功が吹聴されることもなければ、噂となって広まることもなかった。むしろ彼を嫌う者が多かった。 戦前ただ一度の叙勲で受章候補者の推薦が日系社会で行われた時も、この「嫌われ者」が原因になって、候補者から外された節がある。 こう書くと「しかし南樹には、移民の草分という敬称があるではないか、敬愛者が居たはずだ」という反論もあろう。が、それは勘違いである。 「移民の草分」を、敬称であると思い込んでいる人が、今日少なくないが、実際は皮肉を込めた綽名(あだな)であった。この綽名は、南樹が自著の書名を『伯国日本移民の草分』とつけたことに由来する。内容を読めば草分とは、明かに南樹自身のことだ。 彼を嫌う人々が、その自称を逆手にとって、綽名として、そうつけたのである。「臆面もなく自分から草分と名乗る嫌な奴」という意味だ。 南樹にも、やがて理解者、協力者が現れるが、それは遥か後年のことになる。 南樹自身は己を良く知っており、人気や名誉を求める気持ちはなかった。しかし水野、上塚、平野のみが輝き、時には偉人扱いされ、それが事実として後世に伝わってしまう━━となると、三人の真実を知っているだけに、相当不快だった筈である。 その不快さが晩年の自著の再版に発展して行った点もあったであろう。 本稿の冒頭で記した叙勲辞退の折の筆者への話も、その顕れであったろう。 ところで筆者は何故こんなことを書いたかというと、右の三人の真実を、南樹を初めとする同時代のパイオニアたちのそれと共に追究して行くと、笠戸丸以降のこの国に於ける日系社会の歴史が、より正確に捉え易いからである。(つづく) *参考・引用資料=文中に記載以外のモノは本稿末尾にまとめて掲載。