【甲子園100年物語(4)】阪神VS阪急 豊中から鳴尾へ
8月1日に甲子園球場は開場100年を迎える。「甲子園100年物語」と題した連載で、“聖地”の歴史や名物の秘話などを紹介する。 香櫨園が廃園になる4か月前の1913年5月、豊中グラウンドがオープンした。造ったのは、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄宝塚線)。沿線でスポーツイベントを行えば、電車の乗客が増える。香櫨園の盛況に刺激されて造ったものだ。 香櫨園を失った阪神電鉄も翌14年、鳴尾競馬場内に運動場を造る計画を立てた。馬券の発売が禁止となって競馬場が遊休化していた。そのトラックの内側を借りて、16年、一周800メートルという広大な陸上トラックを造った。トラックの外側にプール、内側に2面のテニスコート。そして17年、テニスコートに隣接して2つの球場を造った。球場を2面も造ったのは、全国中等学校優勝野球大会を阪急の豊中から奪うためだった。 現在の夏の全国高校野球選手権大会の第1回開催は15年。まだ鳴尾球場の開場前で、豊中グラウンドで開催された。香櫨園で関西の野球人気に火をつけた阪神電鉄とすれば、忸怩(じくじ)たる思いだっただろう。 大会を主催する大阪朝日新聞社には豊中に満足できない点があった。「全国大会」と銘打つ以上、出場校を増やしたい。ただ、当時、出場校の旅費は同社が負担したが滞在費はチームの自費。大会会期は延ばしたくない。「同時進行で試合ができる2つの球場を用意できれば、会場を鳴尾に移してもよい」と提示されていた阪神電鉄は、鳴尾に2つの球場を造った。阪神の鳴尾が阪急の豊中を条件で上回り、17年の第3回大会からは鳴尾で開催されることになった。 第3回の出場校数は前年の豊中と同じ12校だったが、試合数は13から15に増えた。第2回の敗者復活は2校(1試合)。第3回は初戦敗退6校中4校が抽選で復活した。鳴尾は第2球場で敗者復活戦を行うことができたためだ。 ところが、この大会で優勝したのは、敗者復活の愛知一中(現・旭丘高)。「一度負けたのに優勝はおかしい」という声が挙がった。敗者復活戦を行える利点が開催地の鳴尾への移転の理由だったのに、敗者復活戦がこの大会限りで廃止された。 だが、鳴尾移転は正解だった。観客が爆発的に増えたのだ。競馬場内なので大きな固定スタンドを造ることはできなかったが、高さ8段の移動式木造スタンドをいくつか造り、ネット裏から両翼方向に並べた。約6000人の観衆を収容できた。 しかし観客は年々増え、23年の第9回で「事件」が起きた。8月19日の準決勝第1試合は地元・兵庫の甲陽中(現・甲陽学院)と京都の立命館中(現・立命館)の対戦。超満員の中で午前10時20分に試合が始まったが、開始直後の初回表、すし詰めの右翼席の大観衆がグラウンドにあふれ出てしまった。試合は中断。正午に再開されたが、第2試合を急きょ、第2球場で午後1時開始とした。準決勝2試合を同時進行することで観客を分散する措置をとらざるをえなかった。混乱の試合を勝った甲陽中は決勝でも3連覇を狙った和歌山中(現・桐蔭)を下し、初出場で優勝を飾ったが、これが鳴尾での最後の開催となった。 ※取材協力=丸山健夫・武庫川女子大名誉教授
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