【セリーヌ・ディオン】歌えなくなる難病に。音楽に捧げた人生、闘病を経てパリ五輪で復活【SPURセレブ通信】
パリ五輪の開会式にてフィナーレを飾り、世界を感動につつんだセリーヌ・ディオン。じつは、エッフェル塔を舞台にしたこのステージは、二度と歌えなくなるかもしれない難病との闘いを経た4年ぶりの復活公演だった。 【写真】セリーヌと生涯唯一の恋人となる26歳年上のマネージャー
◆「神の声」のバラード女王 現在56歳、2億5千万枚もの売上を誇るセリーヌといえば、とにもかくにも、最高峰の歌唱力だ。少女時代ライザ・ミネリを手がけた高名作曲家に「神の声」と言わしめた美しい高音こそ、彼女をスーパースターにたらしめた。 また、歴代最大のフランス語歌手でもある。英語アーティストとしての賞を拒否したこともあったほどルーツへの誇りを持っており、これまで出してきたアルバムも英語よりフランス語作が多い。フランスにおいては史上もっとも売れたアルバムとシングルの記録も保持しているため、今回のパリ五輪とも深いつながりがあった。 仏系カナダ人として1968年に生まれたセリーヌ・マリー・クローデット・ディオンは、貧しい音楽一家の14人兄弟の末っ子として育った。音楽グループ活動も行っていた家族のなかでひときわ才能のあったセリーヌにとって、歌手は当然の進路だったという。 12歳のころには、有名マネージャー、ルネ・アンジェリルを歌声で泣かせて契約をとりつけた。このルネが自宅を抵当にいれるほど協力したこともあり、セリーヌは、フランス語で歌う天才少女として地元のみならずフランスでも名をはせていった。その後、英語の特訓も行い、1990年代にアメリカで大成功。日本でも聴き継がれている映画『美女と野獣』や『タイタニック』のテーマソングによって、バワーパラードの女王となった。 ◆歌と家族に捧げた人生 セリーヌ・ディオンの人生は、音楽と家族に捧げられた。有名なのは、アスリートばりの訓練姿勢だろう。酒や夜遊びにあけくれるほかのスターたちとはことなり「最高の自分」、おもに歌声を守るため、アルコールは一滴も飲まず、痰の原因となる乳製品すら制限し、10時間以上の睡眠時間を確保してきた。 プライベートでは、18歳ごろ、生涯唯一の恋人となる26歳年上のマネージャー、ルネと禁断の恋に落ち、1994年に結婚。21世紀に入ると子どもたちにも恵まれ、家庭や夫の介護に専念するため休養を挟みつつ、ライブの女王として興行記録を打ち立てていった。歌手として世界中をまわってきたが、観光したことはほとんどないという。 「歌声が人生を導いてくれた。私はただ自分の声に従ってきただけ」 人生経験の少なさは成功の代償だったと認めているものの、そのかわり、たくさんの愛をもらえたとも誇っている。彼女はなにより、ファンやチームと一体になれるステージが大好きなのだ。 ◆歌えなくなる病 まさしく歌うために生まれてきたセリーヌ・ディオンだが、2008年より、不調に苦しめられていった。声がでなくなり、ステージで歌えなくなることも増えていったのだ。いくら通院しても原因不明だったため、薬の量を増やしていき、嘘の理由で休演することもあった。 愛する夫や兄と死別しながらも活動をつづけたが、母を亡くした2020年ごろには、歩くことすらできなくなってしまった。2年後、ついに診断されたのが、スティッフパーソン症候群。原因も治療法も不明とされる難病で、筋肉が硬直する神経疾患とされる。「首を絞められる感覚」と語ったセリーヌの場合、肺自体は健康だが、その前にある筋肉がかたくなり、声を操れなくなってしまった。さらに、激痛をともなう痙攣のトリガーとなるのは、群衆や騒音、光、本人のポジティブな強い感情。これらすべて、彼女が人生を捧げてきたコンサートの条件だ。 診断を公表したセリーヌは、自宅療養に励んだ。もう一度歌うため、本人いわくアスリートのような熾烈なトレーニングの日々をはじめたのだ。AmazonPrime配信ドキュメンタリー『アイ・アム セリーヌ・ディオン ~病との闘いの中で~』では、2年ぶりのレコーディングに挑戦した結果、激しい痙攣におそわれる痛ましい姿までおさめられている。 ◆パリオリンピックでの復活 「できるかぎり最高の自分になりたい。目標は、もう一度エッフェル塔を見ること」 過酷な背景を知れば、パリ五輪のパフォーマンスはさらに感動的になるはずだ。セリーヌは、エッフェル塔をふたたび目にすることを目標にしていた。前述どおり、パリはつながりが深い街だ。亡き夫と奔走していた少女時代はじめて行った都市であり、彼女をはやくから愛して認めてくれた国でもある。2015年同時多発テロが起こった際には、今回と同じ「愛の讃歌」を歌って捧げた。 4年ぶりの復帰パフォーマンスとなった開会式では、エッフェル塔を見上げるどころか、塔から30万人もの聴衆をながめながら歌うこととなった。セリーヌがとくに尊重したのは、五輪の主役たるアスリートたちだ。あの「愛の讃歌」は、犠牲を払う決意を下し、痛みと苦しみにたえてきた選手たちへの祝福だった。式後、このようにつづっている。 「選手のみなさんは、夢に向かって懸命に努めてきました。メダルの有無に関わらず、ここパリに来られたこと、それだけで夢が叶ったと感じていただけたら幸いです。どうか誇りに思ってください。みなさんが最高の状態に至るため多大な努力を重ねてきたことを、私たちは知っています」 この言葉は、そのまま本人へもあてられる。病と勇敢に闘ってきたセリーヌ・ディオンは、我々に最高のステージを届けてくれたのだから。 【辰己JUNK】 セレブリティや音楽、映画、ドラマなど、アメリカのポップカルチャー情報をメディアに多数寄稿。著書に『アメリカン・セレブリティーズ』(スモール出版)