「楽しかったことは一つもなかった」47歳で他界した原爆小頭症の男性も 被爆者たちの人生【日本被団協ノーベル平和賞】
被爆者の仲間と出会い、原爆小頭症の認定を受け、国家補償の援護法を求める運動にも参加しました。 横山 照子 副会長:「デモ行進なんかにもね(参加して)、『もう光石くん、ここで帰ろう』と言ったら、『いや、自分は最後まで歩く!』と言って」 しかし、病は、ようやく生きる意味を見出した光石さんに重くのしかかります。47年の生涯を終える際に残した最期の言葉ー 「楽しかったことは ひとつもなかった」 横山 照子 副会長: 「(原爆が投下された時)まだ生まれていなかったのに、本当に世の中にも出ていないのに被害を受けて、そして、こういう人生を辿らなきゃいけなかったと。思い出すと本当に…(涙)」 ■被爆者たちが 命を削り 伝え続けてきたこと 故 谷口 稜曄 さん: 「私はモルモットじゃありません。もちろん見世物でもありません。でも(私の)姿を見てしまったあなたたちは、どうか目をそらさないで もう一度見てほしい」(2012年 長崎市で) 故 山田 拓民 さん: 「あの日 長崎で起こったことは、人間の世界では絶対にあってはいけないことでした。核兵器に戦争の抑止力を期待するなど、とんでもないことです」(1988年 平和祈念式典で) 故 渡辺 千恵子 さん:「原爆犠牲者は もう私たちでたくさんです。世界の皆さん、原水爆を どうか みんなの力で止めさせてください」(1956年 第2回原水爆禁止世界大会で) 故 山口 仙二 さん:「命のある限り、私は訴え続けます。ノー・モア・ヒロシマ、 ノー・モア・ナガサキ、ノー・モア・ウォー、ノー・モア・ヒバクシャ」(1982年 第2回国連軍縮特別総会で) 日本時間の10日夜に行われるノーベル平和賞授賞式。被団協の代表委員らは、「核なき世界」を願い、道半ばで他界した被爆者たちの思いを胸に臨みます。
長崎放送