「楽しかったことは一つもなかった」47歳で他界した原爆小頭症の男性も 被爆者たちの人生【日本被団協ノーベル平和賞】
原爆をテーマにした自由律俳句を残した松尾あつゆきさんの娘で、母と、3人の弟妹を原爆で亡くしました。 NBC長崎放送 元記者・舩山 忠弘 さん: 「平田さんは、三菱兵器茂里町工場で被爆されたんですよね。腕にひどいケロイドがあった。そのケロイドを見つめながらね、涙をこぼしながら話されたことが僕は印象に残っていますね」 故 平田 みち子 さん: 「自分の腕にもこれ、死ぬまで消えることのない傷跡を残していますけど、この傷にしましても、今になったら捨てきらないですね」 「もうきれいな手と替えてくれると言っても、なんかもう替えきらないです」 原爆によって家族を奪われ、自らも生死を彷徨い、学問を諦め、結婚生活もうまくいかず、女手一つで3人の子を育て、耐え抜いた人生でした。 NBC 元記者・舩山 忠弘 さん: 「(平田さんは)このケロイドと共に、自分は戦後ずっと背負って生きてきたと。だからこのケロイドと共に死にたい、という意味だったと思います」 ■最期の言葉「楽しかったことは ひとつもなかった」 長崎被災協は、授賞式が行われるノルウェー・オスロで配布する英語のリーフレットを作成。 核兵器廃絶を世界に発信した代表的な被爆者の声と共に、若くして人知れず亡くなった一人の被爆者も紹介しています。 光石 信幸 さん。母親が妊娠3か月で被爆したために「原爆小頭症」として生まれ、知的障がいがあった他、様々な病に苦しみました。 光石さんの録音テープ: 「とにかく手がしびれて、足が痛いし。(職場で)邪魔だからと毎日んごと(毎日にように)怒られて。それで辞めて」 光石さんのことをリーフレットに書いたのは、長崎被災協で長年、被爆者相談員を務めてきた横山 照子 副会長です。 横山 照子 副会長: 「私が一番、相談活動をやりながら、心にいつも残っているのは、光石くんのことなんですね」 家族にも愛されず、いじめを受け、20代半ばまで自分が被爆者とも知らなかった光石さん。