巨人とヤンキースでプレーしたホワイト氏「マントルと王貞治とクリーンアップ。キャリアの誇り」
米野球殿堂博物館は20日(日本時間21日)、ニューヨーク州クーパーズタウンにある同博物館が来年7月25日(同26日)から開催する「野球とベースボール 太平洋を越えた日米の野球交流」の企画展に先立ってヤンキースタジアムで記者会見を開催。ヤンキースと巨人で4番を打ち、ワールドシリーズと日本シリーズ優勝を経験したロイ・ホワイト氏が日本時代を回想。後にスカウト、コーチとして触れ合った松井秀喜氏との思い出などを語った。 【動画】ついに出た!大谷翔平、日本人メジャー最多の通算176号は豪快!! 15年在籍したヤンキースでは、Wシリーズ3連覇を支えたが、1979年は出場機会が激減。プエルトリコのウィンターリーグを思案していた所に、巨人からオファーが届いた。 「日本でプレーした選手から話を聞いて、日本の野球に興味はあったし、給料は2倍になった。何より家族が養えたのは有り難かった」。契約は2年総額50万ドル。ヤンキースの年俸は16万ドルだった。「巨人という歴史あるチームで、サダハル・オー(王貞治)と一緒にプレーできた。ミッキー・マントル、王貞治という日米の偉大な選手とクリーンアップを組んだことは、キャリアの誇りだ。家族も日本の暮らしに馴染み、日本の各地の都市に行き、文化を知ったことも大きな財産だ」。来日3年目には、一人でタクシーに乗って運転手に行き先を告げ、レストランで注文も出来るようになった。 日本時代の最高の日と振り返るのは、1980年6月12日の広島戦。右越えソロ、右中間二塁打を放ち、救援投手の江夏豊から左越え同点ソロ、延長戦で再び江夏からサヨナラ弾と1試合3本塁打の離れ業。息子を初めて呼び寄せた試合で大活躍し、翌日の新聞を楽しみにしていたら、紙面は、その試合で節目の850号を放った王貞治の記事で埋まっていたというオチがつく。「私は3本打った。王は1本しか打ってないのに(笑)」 引退後は、ヤンキースのスカウトを務め、松井秀喜氏の獲得に尽力した。「私の報告書はA。晩年は衰えたけど(笑)外野手としてスピードもあり、ユニークな選手だった」 松井氏のヤンキース入団当時は一塁コーチを務めた。1年目の本拠地開幕戦で満塁弾を打ち、翌年は東京ドームで開催された日本開幕戦(対デビルレイズ)で、豪快な本塁打を放った。「人々は熱狂していた。日本中が松井の本塁打を期待している中で打った。鳥肌が立った。彼は最高のクラッチヒッターだった」と称え、同記者会見に参加した松井との再会を喜んでいた。
報知新聞社