「だから、私は山へ行く」#25 佐伯克美さん
「だから、私は山へ行く」#25 佐伯克美さん
山を愛し、山とともに生きる人に迫る連載「だから、私は山へ行く」。今回は、クロスカントリースキー全日本、ワールドカップマスターズ優勝の佐伯克美さんにインタビュー。教師としての仕事をまっとうしながら、山に登り続けてきた彼女の人生とは。
幼いころから「山」が傍らに
富山県魚津市在住、今年で88歳。夫は剱岳をベースとする登山家の佐伯郁夫。富山駅近くに登山道具店「チロル」を立ち上げ、山岳ガイドを生業としていた。長男は佐伯岩雄。父の「チロル」を引き継ぐ(現在は魚津市に移転)。(公社)日本山岳ガイド協会前副会長であり、父同様登山道具店と山岳ガイドの二輪を動かしてきた。 克美は立山町で生まれ育った。7人姉弟で4番目に生まれた4女。3人までは大切にされたけれど、自分はどこかしら「おまけ」なのではないかと思っていた。だから、中学校を卒業したら働こうと考えていた。しかし周囲の勧めがあり高校へ進学。戦後、日本中が貧しかった時代。 高校卒業後こそ働くことになるだろうと考えたが、担任の教師から奨学金を勧められ、富山大学教育学部へ。クラスで四年制の大学に進んだ女子はただひとりだった。「女性が働きやすいのは教師の道と思ったから」と、克美は中学校の理科の教師として働き始める。
「山」はいつしか、人生そのものに
卒業後、岩にも雪山にも登りたく、魚津岳友会に入会した。当時、魚津岳友会の代表を務めていたのが、創立会員の佐伯郁夫。郁夫は魚津高校山岳部を経て魚津岳友会を設立した。生まれ育った魚津の背後にそびえる剱岳や北方稜線の山々に、多面的に深く関わり、初登攀やルート開拓も行なってきた山岳会だ。 やがて克美は、同い年の郁夫と結婚。「郁夫さんと結婚すれば、この先もずっと山に登れると思ったから」と克美は笑う。一男一女を授かったあとも、仕事も山も続けた。「郁夫さんのお母さんが立派な人だったのよ」という。彼女から仕事を続けなさいと言われ、絶対仕事をまっとうしようと思った。平日だけでなく、山に行く日も孫の面倒を見てくれた。 ときには、子どもたちの手を引いて山に登った。小学生の岩雄は、雪の残る毛勝山の阿部木谷を途中まで登った。その先は子どもには無理だからと、ひとりでスキーを滑らせて遊びながら両親の下山を待っていた。秋の下ノ廊下に連れていったこともあった。「谷底に子どもが落ちたらどうするんだ」という人もいたが、自分の息子のことは母親がよくわかっている。彼ならば歩けると判断した。歩けなくなったら、途中から自分が背負えばよい。それができると思った。