中日、山本昌の背番号「34」を準永久欠番扱いしなかったことの是非
落合GM自身も、ロッテ、中日の現役時代につけた背番号「6」へのこだわりを常に持っていた。和歌山の落合記念館は「6」をイメージして六角形で建てられているし、FAで巨人に移籍すると、篠塚和典が「6」をつけていたため、6が絡む「60」にした。中日も、落合がライバルチームの巨人に出ていったにもかかわらず、翌年1年だけは空き番とした。おそらく落合GMは、そういう背番号の魔力を知っているからこそ、選手のモチベーションを高めるため、あえて背番号をいじるのだろう。 中日の永久欠番は、戦争を跨いで活躍した西沢道夫の「15」、服部受弘の「10」以来、45年以上作られていない。そういう背景もあって、落合監督、GMが自由に背番号を動かせたのかもしれない。、 落合GMは、監督時代から延べ50人以上の背番号を変えた。就任直後に当時「7」をつけていた谷繁元信・現監督の背番号を盟友の森昌彦や古田敦也ら名捕手の番号として知られた「27」に変更したり、平田良介から「8」を奪い「40」に変更、背番号「8」は「16」をつけていた森野将彦につけさせ、エースナンバーは「18」論を貫き、もう後がない中里篤史や佐藤充らに70人目の支配下登録選手の意味をこめて「70」をつけさせた。発奮材料にさせるのはいいが、一方で伝統や重み、前につけていた選手へのリスペクトがないのは、いかがなものか。 その最たるものが、ミスタードラゴンズ、立浪和義がつけていた背番号「3」を引退後、すぐに森野将彦につけさせようとした事件。結局、森野が拒否し1年だけ空き番となったが、永久欠番を嘆願するファンから署名活動まで起きた背番号を、翌年には立浪と同じくPL学園出身の吉川大幾(現巨人)にあっさりとつけさせた。一貫して、オレ流を貫くぶれない方針であることは確かだが、その方針は正しいのか。ファンの感情無視とも言えないか。 背番号34に関しては、山本昌自身は、「これは球団にお返しするもの。ドラフト5位の僕にこんな夢のようないい番号をもらって驚いたことを覚えている。一生好きな番号。できれば、左ピッチャーにつけてもらいたいかな」と引退会見で語っていた。 引退して、背番号を球団に返上した以上、何も口をつっこめないのだろうが、たとえば広島は、前田智徳の「1」などの準永久欠番に関しては、前田に指名権を持たせている。阪神の背番号「31」も掛布雅之氏が2軍監督として復活させたが、「次に31をつける選手は掛布が決めて下さい!」と、継承権を与えられていた。中日の「34」に関しては、山本昌に次の指名権を持たせるとか、本人の了承を得るなどの、そのプロセスに山本昌を応援し続けてきたファンを納得させるような気遣いも、必要ではなかったか。一番苦しいのは、その期待を背負うドラフト4位の福であることは確か。 その福は、入団会見で、「長年レジェンドとして活躍されてきた山本昌さんの番号だけに責任が重いです。次の福がダメだと番号を汚してしまいます。1年目から活躍して、34は福でよかったと思ってもらいたいです」と、神妙な顔で語ったが、明るく電車パフォーマンスなどを見せてくれたことが救いだった (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)