武田信玄にとって赤字事業だったはずの「信玄堤」。それでも工事に着手した理由とは…現地を歩いて初めて見えたもの
◆信玄が創建「甲斐善光寺」 続いて向かったのは信玄が創建したとされる甲斐善光寺です。 ここは川中島の戦いの際、現在の長野県にある信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558年)に阿弥陀如来像や寺宝などを甲斐に移したのをきっかけとして開基された、とのこと。 先生オススメの見どころが「宝物殿」で、中には阿弥陀如来像に加えて、武田信玄朱印状などが展示されていました。源頼朝の木像も。 頼朝といえば、近年になって「長く肖像画とされてきたものが本人ではなかった」と言われていますが、先生いわく「一部の研究者の間では、現存する絵や像の中で、甲斐善光寺の木像がもっとも本人に近いとされている」そうで、頭の中の”頼朝像”を更新するべく、ツアー参加者はみな木像をまじまじと見つめていました。 ここでランチタイム。その名も信玄館にて山梨名物”ほうとう”を食べた後、隣接する恵林寺へと向かいます。
◆信玄の菩提寺「恵林寺」 恵林寺は1330年、禅僧の夢窓国師によって開かれ、その後1564年に武田信玄の菩提寺に。 本堂の明王殿には信玄の姿を摸刻させたという「武田不動尊」が安置されています。 明王殿の手前には音を立てずに歩くのは難しい「うぐいす廊下」があったり、真っ暗な「胎内巡り」も用意されていたりと、ここも見どころいっぱいでした。 しかしまわるお寺、みなどこも大変に立派です。実際に足を運んでみて、あらためて信玄の信心深さを感じます。
◆赤字でも信玄堤を築いた理由 さらにバスは一路、甲斐市の信玄堤公園へ向かいます。 信玄堤は、釜無川と御勅使川の治水を行うために信玄が築いたとされる堤防。今も現役で機能しており、市民を水害から守っているそうです。 先生いわく「近辺での石高と、工事にかかったコストを単純に比較すれば、おそらく大変な赤字だった。それでも信玄が着手したのはなぜか? 甲斐の領民を守りたいという強い気持ちを、ぼくはそこに感じる」とのこと。 堤の上からの雄大な景色も相まって、信玄の大きさをあらためて感じるお話です。 なお、ツアーに同行したコンダクターさんは「寒風吹きすさむ河原で、しみじみと小一時間。歴史好きなみなさんの高みまで私はたどり着けそうにない…」ともらしていました。 これにて2日目の前半は終了。後半は信玄の後継者・勝頼の歩みに沿ってツアーは進んでいきます。
「婦人公論.jp」編集部
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