【ヤマハRZ250開発秘話】1980年「最後の2ストスポーツ」を覚悟して作られた、水冷&モノショックの画期的モデル
北米から欧州市場への転換
世の中にタラレバはないものの、1980年代初頭にRZ250/350が誕生しなかったら、以後の2サイクルロードスポーツの発展はなかったはずだ。ここでは当時開発に携わった2人の技術者に、RZが誕生するまでの経緯を聞いてみたい。 【画像11点】1980年型ヤマハRZ250/RZ350を細部まで写真で解説「内部構造やレーサーTZとの比較も」 ──1979年にプロトタイプが公開され、1980/1981年から発売が始まったRZ250/350は、当時としては非常にエポックメイキングな車両だった。まず排出ガス規制が厳しくなりつつあった1970年代末に、新規の2サイクルスポーツを作ろうとした姿勢が画期的だし、市販レーサーTZ250譲りのメカニズムを随所に採用した点も相当に斬新かつ意欲的。当然ながらRZ250/350は爆発的に売れ、後世のスポーツバイクに多大な影響を及ぼすこととなったわけだが……。 実際開発に携わった技術者は、このモデルに何を託そうとしたのか。世間では、「最後の2サイクルロードスポーツとして開発された」と言われることが多いRZ250/350だが、開発陣はそうしたことを意識していたのか。お話を伺ったのは、1974年の入社以来、主に走行実験担当でRDやRZを筆頭とする2サイクル車に携わってきた竹内敏也さんと福沢美好さんだ。 竹内●最後の、という意識は確かにありました。でもそれが排出ガス規制のせいだったかと言うと、必ずしもそれだけではなかったと思います。RZの開発がスタートした1977年ごろで、本当の意味で厳しい規制があったのはアメリカの一部の州だけで、欧州や日本ではまだそれほど差し迫った状況ではなかった。ただし、当時のヤマハは「今後は今まで以上に4サイクルに力を入れていく」という方針になっていましたから、「2サイクルで思い切ったことができるのはこれが最後かもしれないから究極となるモデルを造ろう」という気運があったのは事実です。 福沢●RZを開発する直接のきっかけは、欧州市場からの要求だったと思います。1970年代までのヤマハは北米市場を最優先していて、あのころ欧州では、北米仕様をベースに手を加えたモデルを販売していたんですが、RZの場合は最初から欧州市場を向いて開発した。後のRZ-Rは北米にも輸出されましたが、RZは基本的に欧州市場のために開発したモデルなんです。 竹内●350ccという排気量も、確か欧州市場からの要求でした。先代のRDでは350ccを拡大した400ccモデルが存在したんですが、現地からは「我々が欲しいのはレースの世界で伝統の排気量区分の350ccのスポーツバイクだ」と言われた。 ──と語るおふたりだが、もちろん、日本市場もRZにとっての主戦場だった。日本市場を意識しなければ、弟分のRZ250が最高出力35ps/乾燥重量139kgという、当時としては驚異的な数値を実現することはなかっただろう(前任のRD250は30ps/150kg)。 福沢●開発のメインとなったのは、あえて言うなら350ccのほうですが、最後まで味付けにこだわったのは250ccだった気がします。基本設計が350ccと共通でも、絶対にお下がり的な乗り味にはしたくなかった。当時の我々がライバルと考えていたのはスズキのRG250で(30ps/126kg)、軽さという面では250cc専用設計のRG250に及びませんでしたけど、トータルではクラストップの性能を獲得できたと思います。