なぜ"暴力反対"は間違っているのか? 思想と歴史に学ぶ「暴力」の必須教養
――先ほど挙げられた目には見えない暴力を、「構造的暴力」と表現しています。これはどういったものでしょうか。 森 暴力を行使する主体がわからないままに、直接的あるいは間接的にわれわれに向けられている暴力が、構造的暴力です。 本書では、「一人の夫が妻を殴ったら個人的暴力だが、百万人の夫が百万人の妻を無知のまま放置したら構造的暴力である」という、日本のアナキストである戸田三三冬(とだ・みさと)の説明を引用しました。 女性を恒常的に「サブジェクト=下に置かれたもの」として位置づけることは、構造的暴力の最たる例です。 ――世の中には「いかなる理由があろうと、暴力は許されない」と考える人が多いと思います。しかし、本書では暴力には否定すべきものと肯定せざるをえないものがある、としていますね。 森 前提にあるのは「どんな人も暴力を発現させる力を持っている」ということです。暴力的な出来事が発生したときには、自分はどんな立場にあるのかを考えなくてはいけません。個人や民衆なのか、軍隊の力を背景とした国家なのか、資本力を持った企業なのか。 こうした立場の非対称性、ヒエラルキー(階級)に注意するべきです。国家や企業などはヒエラルキーの上位であり、個人や民衆などは下位です。 上位から下位に常に暴力が振るわれているのに対し、下位が抵抗のために振るう「反暴力」は、否定すべきでないというのが本書の立場です。 ――本書では、「反暴力」はヒエラルキー上位からの暴力に対抗し、その暴力をなくしていくための暴力と定義されています。 森 反暴力には、非暴力的な側面もあるし、暴力的な側面もあり、かなり包括的な概念です。その具体例として、メキシコの反政府組織である「サパティスタ民族解放軍(EZLN)」や、シリアでクルド人が起こした「ロジャヴァ革命」、アメリカにおけるブラック・ライブズ・マター(BLM)などについて書きました。 これらは、自己防御しなければ自分や家族、友人が殺される、という状況下で起きた運動です。そういう場合には、暴力的抵抗は肯定されてしかるべきです。