『虎に翼』寅子モデル・三淵嘉子 最高峰の女子高で<卒業生総代>に。声やダンスが絶賛されて演劇では主役を…生涯友情が続いた友人との日々
◆東京女高師附属高女での生活 嘉子の演技の能力は、もしかしたら「宝塚」が好きだったこととも少し関係しているかもしれません。 この頃の嘉子は、男役の雪野富士子<1905―1939>の大ファンでした。雪野は宝塚少女歌劇団雪組の男役でしたが、1934(昭和9)年に退団、若くして亡くなりました。 宝塚少女歌劇団は、1913年結成の宝塚唱歌隊を前身とし、現在は宝塚歌劇団という名称になっています。宝塚大劇場が有名ですが、早い段階から帝国劇場でも公演を行っており、また1934年には東京宝塚劇場が開設されたので、嘉子も東京で観劇に行ったことがあったかも知れません。レコードや絵葉書、脚本集なども広く売られていました。 嘉子はダンスも上手で、体操の時間に嘉子がダンスの振り付けを考えて、仲間たちと創作ダンスを踊ったこともありました。 翻訳物の文学書に夢中になった時期もあり、仲良し5人組で同人誌のようなものを作って小説を書き合ったこともあったようです。
◆頭脳明晰 母親のノブはしつけに厳しい人で、その教育の成果もあったのか、嘉子は正義感が強く、努力家で、他人の苦しみを親身になって考えられるような性格に育ちました。 また、ノブは信心深く、嘉子やその友人も連れて、一緒に浅草観音や巣鴨のとげぬき地蔵、牛込釈迦堂などをまわったこともありました。 理知的な嘉子がなぜか迷信や占いを信じるようなところがあった、というのは友人たちが口を揃えて語るところですが、10代の頃のこの不思議な迷信・占い好きもまた、ノブの影響があったのかもしれません。 嘉子は頭脳明晰で、考えたことを言葉として表現する力に秀でていました。 とはいえ、いわゆる「ガリ勉」ではなく、おおらかで明るく、友人たちと青春を満喫していたというのが、当時の友人たちからの嘉子評です。 ですから、卒業式で嘉子が総代になった時には、同級生たちはみなとても驚きました。 ※本稿は、『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。
神野潔
【関連記事】
- 『寅に翼』シンガポールで生まれ「普通のお嫁さんになるな」と育てられた寅子のモデル・三淵嘉子。東京帝大卒のエリート父・貞雄が西麻布に居を構えるまで
- 朝ドラ『寅に翼』見合いの席で寅子が語った「エアガール」とは?戦後初の「スチュワーデス」一期生の募集は、昭和26年に新聞広告で行われた
- 2024年春NHK朝ドラ『虎に翼』主題歌は米津玄師「まさか夜中でばかり生きている自分が朝ドラの曲を作ることになるとは」
- 2024年のNHK朝ドラヒロイン、伊藤沙莉さん、3つの理由で大好きな女優さん。兄・伊藤俊介さんは「ひよっこが虎になった」と
- <キャリアのピーク>42歳で笠置シヅ子が歌手を引退した理由とは…服部いわく「最高の思い出を残して音の世界から消えた」誰もがリスペクトしたその潔い生き方『ブギウギ』