『中西太、優しき怪童 西鉄ライオンズ最強打者の真実』/13中西が兼任監督就任。「私に監督をやれる力があるとか、やれると思って受けたわけじゃない。球団経営をする面でいろいろある。僕らの頭じゃ考えつかんことがね」
三原監督は大反対だった
昨年2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。 【選手データ】中西太 プロフィール・通算成績 書籍化の際の新たなる取材者は吉田義男さん、米田哲也さん、権藤博さん、王貞治さん、辻恭彦さん、若松勉さん、真弓明信さん、新井宏昌さん、香坂英典さん、栗山英樹さん、大久保博元さん、田口壮さん、岩村明憲さんです。 今回は再び1961年オフの話です(一部略)。 1961年シーズン終了後、11月2日の朝刊で、中西の兼任監督就任が報じられた。昭和生まれでは初の監督誕生だ。 年齢は28歳。さらに26歳の豊田泰光の助監督、24歳の稲尾和久の投手コーチ就任も発表。いずれも選手兼任だった。戦国武将・毛利元就の故事から「三本の矢」とも言われていた3人の青年内閣誕生だ。 11月4日、就任会見。80人ほどの報道陣が集まり、球団事務所には入り切れずに急きょ天神町の「クラブ九州」を借りた。グレーの背広を着た中西はチェックの背広の稲尾、英国調の渋い背広の豊田を左右に従え、ソファにどっかりと座った。 中西の表情は硬かったが、ほかの2人は、いつもと同じで緊張した様子はない。豊田が「サイちゃん(稲尾の愛称)、やっぱりコーチになると違うね。いやにいい背広を着てきたじゃないか」と言うと、稲尾が「実を言うと背広で差をつけようと思って」と答え、記者たちを笑わせた。 「(10月)30日に西(西亦次郎)社長から言われたときは、思わず、『まだバットで3、4年メシを食う自信があります』と言ってしまったよ」と中西。 かねてより、「うちは監督に事欠きませんよ。中西の次に豊田、その次が稲尾でしょう」が西社長の口癖だった。3人がいずれ西鉄を背負って立つ指導者になるであろうことは誰もが予想し、期待もしていたが、あまりに早いようにも思えた。 中西は「責任は感じているが、ピンとは来ない。ただ、そう難しく考えないことにしています。肩書はつけ足しで、バットを持っている間は選手・中西。来年も第一線でバリバリやらないと。いくら口先でハッパを掛けてもダメだしね。今年の後半は手首ばかりじゃなく体のあちこちが痛んで満足に動けなかったが、そういう状態で打率3割、ホームラン21本を打ったので自信になった」と話した。 監督就任の打診を受けた際、一度は固辞している。監督という大任への不安、選手一本で力を尽くしたいという思いに加え、前監督の川崎徳次の存在があった。川崎監督の2年間、故障で離脱が多く、迷惑を掛けたという思いは強い。親しい記者には「筋が通ればともかく、現在の監督を押しのけて監督になることはできない」と漏らし、話を受けたのは川崎が球団重役に就くと聞いてからだった。 「監督になることを決めてから眠れなくなったが、川崎さんが電話をしてくれ、監督としての心構えを説いてくれホッとした」 話しているうちに表情がほぐれ始める。「監督と言っても人間が変わるわけじゃない。監督なんて言われたらこっちが堅苦しくなる。これまでと同じで太と呼んでくれよ」と言い、記者たちから笑いが起こった。 兼任監督の一番の成功例は1946年、30歳で南海(当時グレートリング)監督となった鶴岡一人だろう。7年間兼任を続け、その間3度のMVP、優勝は4度だった。 ただ、時代が違う。野球はより高度となり、監督に求められるものも増えた。レギュラーであれば守備中はもちろん、打者、走者としてもベンチから離れてプレーをしなければいけない。代わりに仕切る参謀役が重要になるが、助監督も選手兼任の豊田であり、中西と豊田の関係がまた微妙だった。 この日も「俺の口の悪いのには定評がある。別に助監督になったと言って改めようとは思わない。少し少なくする程度かな」と言って笑っていた。その舌鋒は中西に対しても変わらないどころか、さらに鋭くなることもあった。 カギとなるのが、稲尾の存在だ。明るい性格で中西、豊田からかわいがられ、その実績から一目置かれてもいた。実は当時の一軍登録のコーチは3人までとなっており、稲尾はその中に入っていない。西社長は「稲尾のコーチはチーム内の肩書です」と説明しているが、2人の緩衝材の期待だったのだろう。 中西は三原脩監督の影響について聞かれ、 「自分の野球のすべてをつくってくれた人。オヤジのノート(三原ノート)を盗んでこなきゃいかんかな(笑)。俺は監督としての名声を得ようという気は毛頭ないが、オヤジの残した財産を無駄にしないためにも頑張らなければいけないと思う」 と三原イズムの継承を誓った。監督に就く以上、常に義父・三原脩と比べられるのは分かっていた。中西にとって避けては通れぬものでもある。 監督就任の決断時、大洋監督をしていた三原は渡米中だったので相談していなかったが、帰国後、「率直に言えば、人の世話をするより自分のことに専念すべきだった。どうしても自分がおろそかになる。彼がこのまま生かされなければ、彼自身にもプロ野球界のためにもマイナスになってしまう」と苦々しい顔で言った。 中西自身、「私に監督をやれる力があるとか、やれると思って受けたわけじゃない。球団経営をする面でいろいろある。僕らの頭じゃ考えつかんことがね。球団に籍がある以上、方針に従わなきゃいかん」と微妙な言い方をしていた。 三本の矢の抜てきは、観客動員のための話題づくりでもあった。球団の補強資金が限られ、大型補強ができないことも中西には分かっていた。 「まあ、若いうちは苦労をせいと言うから苦労しますよ」 そう言って、いつもの笑顔を見せた。 不安があっても笑える男だった。
週刊ベースボール
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