ベルリンの壁崩壊から35年の秋、世界が目にしたトランプ氏の米大統領再選
あれから35年の歳月が流れた。東西を分断していた「ベルリンの壁」、それが破れたことによって国同士の対立も薄まり、平和になると思われた世界だったが、今、いたるところで新たな壁を作りながら"漂流"している。
東西を分断する壁
「ベルリンの壁」は、1961年(昭和36年)に作られた。第二次大戦で敗戦国になったドイツは、米英仏ソの4か国による占領下に置かれたが、"西側"である米英仏と"東側"であるソ連によって、国が分断された。同時に、ベルリンの町も東と西に分断された。東ドイツ国内に"飛び地"として存在した西ベルリンの町を、ぐるっと取り囲む形で築かれたのが「ベルリンの壁」である。
悲劇の舞台となった
総延長は150キロメートルあった。壁の高さは3メートル余りで、その上には有刺鉄線が張りめぐらされた。自由を求めて"東側"から、壁を乗り越えて"西側"へ逃れようという動きを防ぐためである。それでも強引に壁を越えようとした人たちは、検問所の兵士によって射殺されるなど、命を落とす悲劇が後を絶たなかった。「ベルリンの壁」は、そんな悲しい舞台でもあり、東西分断の象徴でもあった。
民主化の波が壁を崩壊した
しかし、壁はいつか破られる。「ベルリンの壁」とても例外ではなかった。1980年代の後半、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアなどの東ヨーロッパ各国で広がった民主化運動の波は東ドイツにも伝播した。その波はもはや止めることができないほどの激流となり、東西を隔てた壁は終焉を迎える時がきた。1989年(平成元年)11月9日、壁の上に立ち、ハンマーで壁を壊していく若者たちの映像が世界を駆け巡った。築かれてから28年、ここに「ベルリンの壁」は崩壊した。
東西冷戦が幕を下ろした
壁が崩壊するタイミングで、「東欧革命」と呼ばれる大きな動きがヨーロッパに起きた。ルーマニアでは大統領が処刑されて独裁政権が終わった。"複合国家"だったユーゴスラビアでは、スロベニアやクロアチアが相次いで独立した一方で、セルビア人、クロアチア人、イスラム教徒が入り混じって暮らしてきたボスニア・ヘルツェゴビナでは、民族紛争が勃発し、3年半という長きにわたって多くの血が流れた。しかし、こうした激動の一方で、東西の大国である米国とソ連は、時のリーダーが会談し、東西冷戦を終わらせた。世界史上でも画期的な出来事であり、これで地球上は平和に向かうと思った。しかし…。