衆院補選東京15区のカオス、これが自公連立終焉後の日本政治の見取り図だ
金と政治の問題で揺れ動いた東京15区
衆議院東京15区の補欠選挙は、これからの国政選挙がいかなるものになるかを象徴的な形で示している。 【写真】宗教団体票という麻薬~公明との四半世紀の連立が自民党をここまで堕落させた この選挙区は、金と政治の問題で揺れ動いてきた。今回の補選は、自民党の議員だった柿沢未途が買収などの公職選挙法違反で有罪になり、議員を辞職したことによる。柿沢の前に自民党から出馬して当選した秋元司も、企業から賄賂を受け取ったとして地裁と高裁で懲役4年の実刑判決を受けている。 こうした経緯があることから、今回の補選に自民党は候補者を立てられなかった。したがって、連立を組む公明党も、どの候補者も推薦していない。その代わりに、立憲民主党や東京の地域政党である都民ファーストの会、維新の会も候補者を擁立しているが、小政党が軒並み候補者を立てている。NHKから国民を守る党、参政党、つばさの党、日本保守党である。 しかも、立憲民主党の候補者が絶対的に有利だというわけではなく、選挙状勢は混沌としている。政党が乱立していることを反映し、選挙妨害で逮捕者も出ている。 これは、東京15区の特殊事情であるようにも見えるが、ごく近い将来、全国どこの選挙区でも、同じような事態が生まれるかもしれない。 それは、政権の座にある自民党と公明党が、連立を組んで4半世紀が過ぎるあいだに、すっかりその力を失ってしまったからである。
生き残るための連立4半世紀
1999年に両党が連立を組んだのは、当時自民党と連立を組んでいた自由党の小沢一郎の仲介によるものだった。なぜ連立を組んだのか。それは、自民党も公明党も生き残りをはかるためだった。 まず公明党の方だが、1994年の公職選挙法改正によって衆院選に小選挙区比例代表並立制が導入されたことが決定的だった。この制度の導入に熱心だったのが小沢だが、最初の選挙となった1996年の衆院選の時点では、公明党は新進党に加わっていた。ところが、新進党は1997年末に解党してしまい、公明党がふたたび結党された。 小選挙区において公明党が単独で当選者を出すのは至難の業である。そこで、公明党は自民党と連立することを選択した。連立によって、一部の小選挙区で、自民党が候補者を立てるのを遠慮してもらい、それで当選者を出してきたのである。 一方、自民党にとっては、連立を組まなければ、政権から滑り落ちる危機に直面していた。すでに1993年には非自民・非共産の細川護熙政権が誕生し、自民党は下野した経験があった。そのときもそうだが、新進党が躍進する際に、公明党の支持母体である創価学会が票田としていかに絶大な力を発揮するかが明らかになった。 そのため、自民党は連立を組む前に、さかんに公明党・創価学会批判をくり広げ、機関誌では創価学会の池田大作名誉会長のスキャンダルを暴くような記事を掲載していた。そのことを謝罪してまで、公明党との連立に踏み切ったのである。 連立後初の選挙になった2000年の衆院選について、今年、熊本県知事を退任した蒲島郁夫が、政治学者として、「民主党と公明党とが共闘していれば、自民党の当選者は激減したことであろう」と言い、「公明党は選挙過程と政府形成過程において、巨大な影響力をもっている」と結論づけたことは大きな話題になった。