朝鮮人136人が「水没」した日本の海底炭鉱、事故から82年後の祭祀(2)
(1の続き) 1932年に開業した長生炭鉱は、1938年4月に制定された国家総動員法により「募集」形態で動員された安価な朝鮮人労働力を使って、石炭生産量を急速に増やしていく。長生炭鉱は朝鮮人が特に多かったため「朝鮮炭鉱」と呼ばれ、炭鉱内でも最もつらく危険な鉱区には多くの朝鮮人労働者が配置された。 彼らは坑道の最も奥深くで一日12時間、一日2交代で休みなく採掘に動員された。キムさんもやはり、毎日海辺の坑口から「石炭ぐるま」に乗って、海の底へと1キロほど続く海底トンネル形態の炭鉱で石炭を掘った。過酷な労働が終わると、捕虜収容所のような宿舎に閉じ込められた。「体調が良くない」と言えばひどい暴力が加えられ、食事が与えられないことも多かったという。キムさんは「でも心配しないでください。必ずここから脱出してお母さんのもとに帰ります」と手紙を結んでいる。しかし、水没事故で彼の約束は守られなかった。この日の追悼式にはキムさんの孫が参加し、キムさんの切ない手紙を代読した。 海中に沈んだ人々のことを初めて掘り起こしたのは、地元の高校教師で郷土史家の山口武信さん(2015年死去)だった。山口さんは現地に残っていた各種の史料や資料を確認し、1976年に「宇部地方史研究」(第5号)という地域学術誌に「炭鉱における水非常-昭和17年(1942年)長生炭鉱災害に関するノート」という論文を発表し、長生炭鉱で起きた大規模惨事を世に知らしめた。続いて1990年に長生炭鉱の「集団渡航名簿」が発見され、犠牲者の身元を確認する端緒となった。翌年、山口さんを代表として、地域の有志により「刻む会(長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会)」が結成された。 刻む会が探し回った末、韓国の遺族たちと連絡がつき、1992年には韓国に遺族会ができた。遺族のカン・イルホさんは犠牲者への弔辞で、「愛する家族の待つ故郷にすぐにお連れする」、「もう少し待っていてほしい」と語った。朝鮮人労働者たちと共に犠牲になった47人の日本人の遺族の一部もこの日の追悼式に参加し、「冷たい水の中にとり残されている父にまた会いたい」と述べて涙を流した。今回の発掘作業のためのクラウドファンディングには、韓日の1212人の市民が857万6000円(約7830万ウォン)を寄せた。刻む会はこの資金で、坑口が開かれた後はすみやかに犠牲者の遺骨の捜索作業に取り組む計画だ。29日にはピーヤからダイバーを投入し、30日には坑口からトンネル内に入るに定だ。 第2次大戦中に沖縄で犠牲になった人々の遺骨発掘作業をおこなってきた日本の市民団体「ガマフヤー」の具志堅隆松代表は追悼式で、「『安定同位体分析法』というものを利用すれば、一片の骨だけでも故人の出生地を割り出すくらいはそれほど難しいことではない」とし、「遺族が確認されていなくても、少なくとも彼らを故郷に帰す方法はいくらでもある」と説明した。また、刻む会と遺族たちは、日本政府に真相究明と適切な謝罪、補償も求めていく計画だ。 日本政府は昨年、長生炭鉱の犠牲者の遺体の収拾について「沈んでいる位置や深さなどがはっきりしないため、遺骨発掘を実施するのは困難だ」として難色を示した。刻む会は「戦争物資である石炭を掘るために犠牲となった人々は戦没者とみなすべきで、遺骨が実在すれば政府は責任感を持って措置を取ってほしい」との立場だ。坑口が発見されたため状況は変化しているうえ、遺体が確認されたら日本だけでなく韓国政府も積極的にこの問題に取り組むべきだということだ。 追悼式に参加した長生炭鉱犠牲者大韓民国遺族会のヤン・ヒョン会長は、「近いうちに犠牲者の遺体と対面できると信じる」として、「韓日の政府には、国や理念の境界を越えて責任感ある役割を果たしてくれるよう切にお願いする」と述べた。 宇部(山口県)/ホン・ソクジェ特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )