映画『ぼくのお日さま』──奥山大史と池松壮亮が語る作品への向き合い方
長編デビュー作『僕はイエス様が嫌い』(2019)で、サンセバスチャン国際映画祭の最優秀新人監督賞を史上最年少で受賞した新鋭・奥山大史。次回作を待ち望まれていた彼が、監督・撮影・脚本・編集を務めた『ぼくのお日さま』が、カンヌ国際映画祭での上映を経て日本で劇場公開を迎える。 【写真を見る】『ぼくのお日さま』のあらすじを写真でチェックする
奥山監督と池松壮亮が語る映画作りに対する想い
■映画『ぼくのお日さま』 アイスホッケーに打ち込む少年・タクヤ(越山敬達)は、ある日フィギュアスケートを練習する少女・さくら(中西希亜良)を見かけて、心惹かれてゆく。その姿を見かけたさくらのコーチ・荒川(池松壮亮)はタクヤにフィギュアを教え始めるのだった。やがてタクヤとさくらはアイスダンスのペアを組むことになり──。 奥山がキーパーソン役に切望したのが、日本映画に欠かせない俳優・池松壮亮。かつてエルメスによるドキュメンタリーフィルム『HUMAN ODYSSEY』で協働し、フィーリングがあったというふたりが作品の舞台裏や映画への想い、今後の抱負について柔らかく、だが確固たる芯を持って語り合った。 ■カットを割らないからこそ紡げる感情のつながり ──奥山監督は今回「カットをあまり割りたくなかった」と話されていましたが、その理由をうかがえますか。 奥山:カットを割ると、どこか感情が途切れる気がしていました。特に子どもを撮るときはテイクによって微調整を加えていくため、ひとつのカメラで撮る以上カットを割ってしまうと、違う感情でつないでいくことになってしまうんです。あと、撮影時にいい画を探っていくとひとつのシチュエーションで本当に良いものはこの角度!というのしか自分の中では見つけられず、そこからカットを割っていくと80点くらいの画になってしまうのが嫌で、「これだな」と思える画だけでカットを重ねていきたいという意味でも割らないようにしました。 カットを割らないことの弊害としては、後から間(ま)が調整できないことにあります。池松さんをはじめ、子どもたちの相手をする大人の演技がとても大事になってくるため、シーンによってはかなりテイクを重ねました。僕は編集時に全カット・全テイクを見返して「このシーンのテイクを変えるとなると次のシーンのテイクも変えた方が感情のつながりがいいかもしれない」という観点で使用テイクを選ぶのですが、その選択肢を作るためにも必要だと思っています。 池松:テイクの数でいうと、今後奥山さんは有名になると思います(笑)。20~30回テイクを重ねることもありました。でも僕自身は全然嫌じゃありませんでした。そこには個人的なエゴが一切なく、配慮があり、丁寧で淡々とより良いものに修正していくような忍耐強さがありました。”場を保つ”能力も素晴らしいですし、自分でカメラを回しているからこそ、監督のフォーカスだけではない部分も瞬時に見てシーンを設計されます。チューニングを繰り返しながら丁寧に綿密に、奇跡のようなワンカットワンカットを手繰り寄せていくような印象です。これだけ編集素材を観る監督はいま、日本にいないと思います。ほんとうに細やかに、大胆に、この1本の作品を創り上げてくれました。ひとつひとつのカットやシーンが、がかけがえのないものになっていると思います。 ──奥山監督はどのように場を保たれているのでしょうか。 奥山:他の方々の現場をあまり知らないのですが、例えば「もう1回」と言ったとき、要望を多く伝えすぎると、照明部やメイク部、衣装部の直しが入っているうちに、特に子どもの場合は「あれ、次はどうすればいいんだっけ」となってしまうので、とにかく1つだけ「今よりもこうしてほしい」を伝えるようにしています。あとは、基本的にテスト(本番前に行う簡単なリハーサル)を重ねずにすぐ回してしまいます。テイクの回数は多いですが、1テイクごとにかける撮影時間は、他の監督の現場よりも短いかもしれません。 ──『ぼくのお日さま』を経て、奥山監督の制作スタイルが確立された感はありますか? 奥山:確立はしてきたと思いますが、とはいえ、もう少しテイクを減らせるといいなとも思います。特に子ども相手の場合、限界がわからなくて「もうちょい行けるかも」というところもあるんです。これが何度か作品を観ている俳優さんであれば「今のがベストだ」と思ってパッとやめられますが、まだお芝居経験の少ない子どもは突然まだ見たことのなかったいい表情を見せてくれたりしますから。テイクを重ねていくことで「今のテイクは良かった」「けれどもう少しやってみたい」「もうこれ以上はないんだな」と、すでにベストなお芝居が撮影できたという確信が持てるまでは諦められないんです。 池松:俳優それぞれによって違うことは皆承知ですが、その上で俳優は機械ではないので、その日のコンディションや向き合う作品や人、シチュエーションやシーンによって当然パフォーマンスにばらつきが出るものです。その個人個人の心の変化を見つめ、決断できることがより良いお芝居を導き出せる能力だと思いますが、世の中は時短が何より良いものとされるので、テイクを重ねないで決めてしまうことは、自分たちでより良い作品や人の可能性を放棄していてもったいないなと感じます。そして比較的、子どもの方が嘘なくお芝居を超えたことをしてきます。ハッとさせられるしドキッとするし、対峙する中で「今のをちゃんと撮れていたら凄いな」という感覚にさせられます。表情や感情が柔軟で新鮮で豊かなんです。 ■子どもたちと芝居をするということ ──池松さんは幼少期から芝居のお仕事をされていらっしゃいますから、目線や感じ方もまた異なるでしょうね。 池松:お芝居というものがどういうものなのか、何もわからないなかで始まりました。自分が幼い頃から表現を続けてきたことによって、知ってきたこと、感じてきたことは当然あるなとは思います。いずれにしても子供たちは可能性に満ちているので、各々の感性や特性を生かしてあげるべきだと思いますし、ふたりの透明な感性でこの物語を体感してほしいなと思っていました。 そのためには、撮影現場の環境でしたり、1番近くにいる僕や奥山さんにどれだけ心を開いているかが、カメラの中で直接的に映ってくるため、こちらも丁寧に向き合わないといけません。奥山さんや僕だけでなく、現場の大人たちがまっすぐに敬達、希亜良それぞれと向き合い愛情を注いだことで、映ったもの、ふたりがギフトのようにこの作品に残してくれたものが今作にはたくさんあったと思っています。 ──越山敬達さんや中西希亜良さんへのアプローチを奥山監督と池松さんでお話しされたこともあったのでしょうか。 池松:子供たちふたりは知らない中で、脚本を知る自分がそのシーンをどうすべきか、どこを目指すべきか、ということを時間をかけてじっくりと相談できたと思います。さらにその時々のセッションを含めた余白を与えてくれたことで、シーンの可動域を常に探れましたし、あらかじめ決められたこと以上の飛躍を目指すことができたのではないかと思います。 奥山さんと初めて仕事を共にしたのは、エルメスのドキュメンタリー『HUMAN ODYSSEY』(21)でした。とある場所に2人で訪ねていくという内容でしたが、ある程度対話しながらも、ほとんど即興の中で共通認識や「どこを目指したいか」というセッションができたという感触がありました。その出会いがあってからの今作だったこともあり、奥山さんが撮りたいもの、奥山さんが撮ったら面白いと思うものをどんどんイメージしていきながらさまざま提案し、奥山さんがどこに反応するのかを探っていくことができました。 奥山:僕はもともと池松さんのお芝居が好きで、『HUMAN ODYSSEY』を企画している際に池松さんとご一緒したいと提案しました。ただ存在しているだけで、そこに役がなくてもストーリーを感じてしまうのが池松さんの凄いところだなと編集しながら改めて感じましたね。その時の感覚を「じゃあどういうストーリーを感じたのだろう」と掘り下げていったことが、この映画にはいかされています。 ■ふたりのなかに共通するもの ──フィーリングが合うお2人は、好きな映画なども共通されるのでしょうか。 池松:今回、奥山さんが「こういう映画を撮りたい」と何本か出してくれた中に大好きなものがありましたし、半年間スケートの練習をしている間に「最近観たこの映画が良かった」といったように互いの趣味嗜好や映画の話を沢山しました。いまふと思い出したのは、『パリ13区』という映画です。物語は昔からよくあるものでしたが、パリに生きる現代の大学生に全編モノクロで寄り添う中で、その被写体に向ける視点の距離感と、抱擁力がとても素晴らしく、奥山さんにその映画について話したことを覚えています。 奥山:直接的に今回の映画とは関係はないのですが、本作の編集をパリでしていたときに13区を訪れてこの映画を思い出すことはありました。 池松:日本の監督は個が強く、多様でオリジナリティーのある映画を作れる方が多いと思います。映画は誕生してから120年ほどの歴史がありますが、奥山さんは様々な国の映画史の遺伝子を確かに受け継ぎながら、革新的な作品を作り上げていく力を持っていると感じています。 ──奥山監督が撮られた米津玄師さんの 「地球儀」のMVを拝見していても、随所に感性を感じます。これは意識的に守っているのか、それとも無意識的に守っているのかはいかがでしょう。『ぼくのお日さま』で商業映画デビューも果たされて、そうしたバランス感覚を今現在どう捉えていらっしゃるのか伺いたいです。 奥山:守っている感覚は多少あるかもしれません。例えばスタッフィングも自分が好きだと思えるものづくりをされてきている方にお願いをしていているのも、その一環と言えます。自分が「この人が作っているものがいいな」と思う人は、向こうも同じように思ってくれる確率が高いのではないかと考えています。ということは、自分が本当に好きな作り手に声をかけること自体が、自分がやりたいことを実現するための近道ともいえるような気がします。 ■これからの映画業界と映画人について ──近年の池松さんの作品を拝見していると、本作でフィギュア、『白鍵と黒鍵の間に』でピアノ、『ちょっと思い出しただけ』でダンス、さらに『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』で格闘術を習得するなど、作品ごとに新たな技能を身に着けてこられた印象です。 池松:広く浅くです。たかだか半年で、真新しい技能を習得できるとは思っていません。その人が何十年も呼吸をするように培ってきたものにはかないません。それでも、映画においてのジャンルものが僕はとても好きです。様々なジャンルの作品に参加できてとても充実していますし、まだまだ色々なことに挑戦してみたいといつも思っています。 ──意識的にそうした役を求めていらっしゃるのでしょうか。 池松:かもしれません。「もっとジャンル映画をやりたいな」とはよく思います。ジャンル映画の定義が難しいですが、様々な映画に参加し、その作品をみてもらううえで、できるだけ多様なものを、とはよく考えます。そうした興味が作品や役と出会うきっかけを与えてくれるのかもしれません。 また、その時々で技能を身に付けることというよりも、その世界を体感しながら没頭していくのが好きな性分なんだと思います。興味が広く、没頭好きな性格によるものかもしれないですね。 ──先ほど奥山監督がプラットフォームによらず撮っていくというお話をされていましたが、池松さんは月9『海のはじまり』にも出演されていますね。ご自身のマインドとして「もっと活動範囲を広げていこう」というものがあるのでしょうか。 池松:20代を経て30代を迎えている中で、延長線上にありながらも目標は違ったところにあります。年々気持ちの変化を感じますし、そうした個人的な想いと人や作品に出会えるタイミングによるものだと思います。昨年事務所から独立したことも変化の訪れの一つになっていると思います。自分自身だけでなく、業界全体、社会全体も大きな転換期にある中で、これからの多様な時代に、それぞれのジャンルにおいて内側から変革していくこともとても大事ですが、様々な可能性を探りながら、外側から滞るものを壊していくことも大切なことだと思っています。これまでの固定された概念を超えて様々な刺激を加えながら、より良い形に変わっていくべき時だと思っています。 奥山:僕の場合「映画界を変えてやろう/変えなくては」等もまだ思えていない立場だとは自認しています。まだまだ映画における実績がありませんから。ただ、『ぼくのお日さま』でいくつかの映画祭に参加させてもらうなかで、他の国の同世代の監督たちと話す機会がありました。そうすると「この人たちの国にはこんなシステムがあって、それによって安定した体制と環境で映画を作れているのか」と羨ましく感じることが少なくありません。良いな、と思っているだけでは何も変わらないですし、どうすれば、映画を巡る状況がより良くなるのか、ようやく自分事化して考え始められるようになってきたところです。 同時に、自分の場合は「こういうものもやってみたら?」とものづくりのきっかけを与えてもらえる広告やドラマ、ミュージックビデオにおいて、そのオーダーに込められた期待に応えていく過程も映画を作る過程と同じくらい好きなんです。だからこそ、今後も映画だけでなく、その時作りたいもの、作るべきものに全力を注ぎ、様々な人たちと出会っていけたらいいな、と思っています。 『ぼくのお日さま』 2024年9月6日(金)~8日(日) テアトル新宿・TOHOシネマズシャンテにて先行公開 9月13日(金) 全国公開 写真・内田裕介、取材と文・SYO、編集・遠藤加奈(GQ)