友なし、彼氏なし。介護で孤独なアラサーの彼女が見た、玄関前に立つ奇妙な来客とは?
平穏な日常に潜んでいる、ちょっとだけ「怖い話」。 そっと耳を傾けてみましょう……。
第54話 あっちとこっち
「すみません、お先に失礼します」 17時半、終業時刻を30分過ぎ、私はいつも通り席を立った。もっとも、習慣的なそのつぶやきを聞いている人は誰もいない。今日は3連休前の金曜日。社員は皆、いそいそと17時きっかりに席を立っていった。 「柚月ちゃん、お疲れ様! 今日も直帰? 偉いねえ、おばあちゃんの調子、どう?」 経理の古沢さんが、唯一まだ仕事をしていて、声をかけてくれた。新卒でこの会社に入って8年。30歳になった私よりもずっと年上だけれど、頼れる女性の先輩で、何かと気にかけてもらっている。 「ありがとうございます、デイサービスのおかげでなんとかやれてます。あまり残業できなくてすみません」 「いいのよ、私も姑を長年介護してたからわかるわ、できることがあったら言ってね。無理は禁物よ、長丁場だもんね」 「はい、心得ます」 私は頭を下げて、笑顔で手を振った。理解のある会社と同僚のおかげだ、私がおばあちゃんのお世話をしながらも働けているのは。 社屋を出ると、粉雪がちらちらと舞っていた。丸の内で働いてずいぶん経つが、いまだにここを行き交うひとが別世界のように感じる。 26歳のときに、私を育ててくれたたった一人の家族であるおばあちゃんが転倒して、それから自分の足で歩けなくなってしまった。それ以来、できるだけ急いで帰る。丸の内のキラキラした大通りも、東京駅までの1本道にしか見えない。おばあちゃんが倒れていないか、困っていないか、いつも心の芯で心配になって、無意識に速足になって帰路につく。
意外な来訪者
「……!? え? あの……」 家に着くと、玄関の前に黒いコートを着た男性が立っていた。電灯をつけていなかったから、我が家の古い一軒家の軒先が暗く、夕闇に溶け込んでいて、相当近づくまで気が付かなかったほど。 「おお~柚月! 久しぶりだなあ、元気か」 「……え!? 神野先生!? ど、どうしたんですか? 何で? どうしてうちに?」 私は仰天して、軒先に駆け寄った。なんとなつかしい中学校の先生がそこに立っていた。 「久しぶりだなあ、元気でやってるか。年賀状、毎年ありがとうな」 「先生、ご無沙汰しています……! どうしたんですか? 今ご勤務されている学校は、この辺じゃないですよね?」 「ああ、普段は中野なんだけど、今、最後の挨拶にあちこち回っててな。こっちにも来てみたんだ、神野はたしか中学校の裏に住んでたなあって」 そういえば去年の年賀状で、先生は今年ご定年だと書いてあった。その挨拶回りに過去教えていた学校を回っているのだろう、律儀な先生らしい。記憶よりも白髪が増えていたけれど、目じりの皺と優しい笑顔は変わっていなかった。 「先生、お時間あるんでしょう? 寒いですからよかったら上がってください、あったかいお茶でも。祖母があと30分くらいでデイケアから戻ってくるんです、それまで、ぜひ」 「おお、それじゃあ一杯だけいただくかなあ、ありがとう。いくら教え子でも女性一人の家に上がるわけにはいかんから、玄関先でいただくよ」 私は玄関の鍵をいそいであけた。こんなに嬉しい、もどかしい気持ちで家に入るのは久しぶりだ。 いつも、おばあちゃんの部屋に駆け込んで、一番に様子を見に行く。祈るような気持ちで。おばあちゃんが、いつもと同じようにそこにいてくれると信じて。今日もまだ、私は一人ぼっちじゃないと、確認するために。