最大瞬間風速がすごかった”天才”(4)中日のスターになった”剛腕”
プロ野球の世界では、長く安定した成績を残し続ける選手もいれば、太く短く圧倒的な成績を残し、ファンの記憶にその活躍を刻む選手たちもいる。今回はその後者にあたる選手の中で、とりわけ活躍が印象深い投手たちにフォーカスを当てて紹介する。
浅尾拓也
投打:右投右打 身長/体重:182センチ/78キロ 生年月日:1984年10月22日 経歴:常滑北高-日本福祉大-中日(2007-2018年) ○最優秀選手:1回(2011年) ○ゴールデングラブ:1回(2011年) ○最優秀中継ぎ:2回(2010、2011年) 入団前からドラゴンズ愛を示し、意中の中日から3位指名を受け入団した浅尾。1年目から一軍デビューを果たすと、若手にとってスターへの登竜門であるフレッシュオールスターにも出場。2年目には北京オリンピックで招集されていた岩瀬仁紀の代役としてクローザーに抜擢され、プロ初セーブを挙げた。その後、後半戦からは岩瀬へ繋ぐ勝利の方程式としての一角として定着した。 2010年にはシーズンを通してセットアッパーを務め、当時の日本新記録となるシーズン47ホールドを記録。リリーフで12勝3敗1セーブの成績をおさめ、リーグ優勝に大きく貢献した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは4試合に登板するも最後の最後で力尽き、敗戦投手となる。だが、「浅尾は責められません」の名実況があるとおり、浅尾の奮闘ぶりは誰もが認めるところであった。 翌11年には、79試合に登板し、7勝2敗10セーブ、防御率0.41、両リーグトップの45ホールドに被本塁打0と驚異的な成績をマークした。2年連続で最優秀中継ぎ投手に輝き、中継ぎ投手としては異例のMVPとゴールデングラブ賞も手にするなど、リーグ連覇の立役者となった。 しかし、ここまで大車輪の活躍で稼働していた浅尾だったが、2012年以降は肩の故障に苦しみ、調子が上がらず登板数は減少していく。17年に通算200ホールドを挙げるも、晩年は全盛期とは程遠い数字が続き、18年に現役引退を決意した。それでも09年から70試合近く投げ始め、登板数と比例して圧倒的なセットアッパーへ駆け上がっていった浅尾の勇姿は、プロ野球ファンの記憶に深く刻まれている。
ベースボールチャンネル編集部