日中戦争で中国兵の頭上から砲弾の雨を降らせた【11年式曲射歩兵砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 第一次世界大戦は、敵味方双方がその側翼に延々と塹壕(ざんごう)陣地を拡げて対峙する塹壕戦(陣地戦の一種)の様相を呈した。そしてこの塹壕陣地に隠れた敵兵は、直射で狙うことが難しい。そこで頭上から砲弾を降らせる兵器として考えられたのが迫撃砲であった。 真上から落ちてくる砲弾は、塹壕の中に直接落下するので塹壕の陣地としての隠蔽効果が失われる。また、よしんば塹壕内に直接に着弾しなくても、塹壕周辺で炸裂した砲弾から飛散する破片のせいで、「生身の敵兵」は塹壕から姿を晒(さら)すことが困難になる。 しかも高圧高初速で砲弾を撃ち出すのではなく、砲弾を上方に撃ち上げて落下させる火砲なので砲身や砲架も軽便な構造でよいため、大口径でない限り人力での搬送も不可能ではない。 こういった理由から、特に小~中口径の迫撃砲は機関銃と同様に歩兵とセットで運用されるようになったが、第一次世界大戦直後の日本陸軍では、同砲は砲兵科の装備とされた。そこで迫撃砲とまったく同様の体裁の砲ながら、あえて曲射歩兵砲(きょくしゃほへいほう)と命名することで歩兵への装備を可能とした砲が1922年に制式化され、同年が大正11年だったことから11年式曲射歩兵砲と命名された。 迫撃砲は、射距離が比較的短いうえ軽量化と生産の簡易化が求められる砲なので、砲身にライフリングが施されているケースが少なく、代わりに尾翼を備えた砲弾を使用して弾道を安定させるが、口径70mmのこの11年式曲射歩兵砲にはライフリングが施されていた。そして歩兵連隊所属の歩兵砲中隊に本砲4門と11年式平射歩兵砲2門が装備され、実戦運用されている。 特に日中戦争における11年式曲射歩兵砲は、目一杯に最前線まで進出し、塹壕陣地のみならず家屋に潜むなどした中国軍を砲撃。頭上から落下する砲弾で陣地内に足止めをかましておき、そこに日本軍歩兵が突撃して白兵戦で決着をつけるという戦い方も行われた。なにしろ、日本軍歩兵の白兵戦の強さは図抜けていたからだ。 しかしさすがに太平洋戦争が始まる頃には、11年式曲射歩兵砲も旧式化が否めなかった。それでも日本軍の火砲不足を解消すべく、一部の部隊では92式歩兵砲と共に運用が続けられている。
白石 光