高校生だった上皇は、銀座に「脱走」した…歴史に残る「銀ブラ事件」の「驚きの全貌」
明仁天皇(現在の上皇)と、美智子皇后(上皇后)のこれまでの歩みを、独自の取材と膨大な資料によって、圧倒的な密度で描き出した『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(岩波書店)が大きな話題を呼んでいます。著者は、全国紙で長年皇室取材をしてきた井上亮さんです。 【写真】皇室記者が現場で感じた、新天皇夫妻と上皇夫妻の「大きな違い」 この記事では、1952年の2月、学習院の高等科3年生だった明仁皇太子が起こした「銀ブラ事件」をくわしく紹介した部分を、同書より抜粋・編集してお届けします。
「銀ブラ事件」の造反有理
二月下旬、明仁皇太子はひととき自身の身分から“脱走”した。周囲に何も告げずに街に出たのだ。本屋にふらりと立ち寄る義宮の自由な生活にも刺激を受けていたのだろう。世にいう「銀ブラ事件」である。 目白の清明寮で「銀座に行く」と皇太子と示し合わせた学友の橋本明は、同級の千家崇彦も誘った。午後七時すぎ、三人は寮を出た。遅番で寮の侍従室に出勤してきた佐分利六郎侍医が目白駅近くで三人とすれ違った。佐分利が新任侍従の浜尾実にそのことを告げると、浜尾は「橋本が殿下に街をお見せしたいと申し出ていたので、目白付近ならと許可しました」と答えた。佐分利は「銀座に行くと言っていたが、まさか……」とつぶやいた。 しばらくして皇太子の消息不明がわかり大騒ぎになった。侍従らに非常呼集がかかり、皇太子の行方を捜索していると、警衛の警察官から連絡が入った。皇太子たちは新橋駅にいるという。慎重な千家があらかじめ知らせておいたのだ。 三人はラッシュアワーの時間帯の山手線を渋谷、品川を経て新橋に着いた。皇太子は学習院の制服制帽の上に紺のコートを着ていた。誰にも気づかれなかった。追従していた警察官が何度も帰るように説得したが聞き入れなかった。侍従の黒木はただちに警視庁に連絡し、地元の築地署がひそかに非常警戒網を張った。目白署からは私服警官が銀座に向かった。
一人の女性の存在
三人は銀座に着くと、橋本がいったん離れ、明仁皇太子と千家が喫茶店「花馬車」に入った。二人は紅茶を注文した。店でも皇太子に気づく客はいなかったが、支配人が「よくお越しくださいました」とあいさつに来たので、二人は驚いて店を出た。そして松坂屋付近で橋本と合流した。橋本は女友だちと一緒だった。皇太子が正月に橋本の家で楽しい時間を過ごしたときに同席した女子の一人、渡辺節子だった。 銀ブラ事件の前のことだった。寮で皇太子が橋本に「ちょっと“アレ”に電話しないか」と言った。橋本が「いいよ」と答えると、皇太子はうれしそうな顔をした。「アレ」とは渡辺節子のことだった。橋本は寮の管理人窓口の電話で杉並区に越していた節子に電話した。橋本は受話器を皇太子に渡すと、三十分も話をしていたという。「脱走」を決行するなら節子も誘おうと言ったのは皇太子だった。寮を出る直前に連絡したので到着が少し遅れたのだ。 四人は銀座をそぞろ歩き、洋菓子店の「コロンバン」に入った。二階の窓際の席に座り、また紅茶とアップルパイを注文した。皇太子は終始上機嫌だった。橋本と千家が店内の様子をうかがうと、警察官らしい男たちが何人かいた。店のウエイトレスも気がつき始めた。潮時だと思った橋本らは店を出た。皇太子は節子と並んで歩いた。橋本の後ろから顔見知りの目白署の私服警官が近づき、「やりましたね」と声をかけた。 四人は山手線に乗って帰途についた。新宿駅で節子が「さようなら、楽しかったわ」と言って降りた。皇太子ら三人は目白駅から清明寮に戻った。寮では「お戻りになりました」と大声が上がるなど、ひと騒ぎになった。 侍従室に出頭した橋本と千家は「最も信用していた君たちに裏切られた」とさんざん絞られた。野村行一東宮大夫は、のちに詫びにきた二人に「君たちの行動は情においては理解もできるが知においては許し難く浅薄、阿呆である。労働運動はなお苛烈であり、ご身分がバレて労働者に取り囲まれるような事態も起こり得たかもしれない」と叱責した。 三年前の第三次吉田茂内閣発足以降、冷戦の激化にともなうレッド・パージが行われていた。戦後の民主化政策の後退が進み、「逆コース」という言葉が叫ばれていた時期だ。日本共産党は非公然の「山村工作隊」などを組織し、武装闘争を展開していた。このあと五月一日には皇居前広場でデモ隊と警官隊が衝突する「血のメーデー事件」が起きるなど不穏な情勢があった。 皇太子はのちの記者会見で銀ブラ事件の動機は「電車に乗ってみたかった」からだと答えている。たまには電車にも気軽に乗れるような自由で人間的な生活を与えてほしいという“造反有理”の行動でもあっただろう。側近たちはその人間としての心を理解せず、自由への配慮を怠っていたとも言える。知において浅薄だったのはどちらだったのか。 数日後、皇太子は群馬県の加羅倉温泉へスキー旅行に出かけた。これにはめずらしく小泉と野村が山のふもとまで同行した。小泉はその理由を「土地の共産党党員達で、スキー場に行かれる殿下のじゃまをしようとしているとのうわさがあったから、ずっと目的地迄御一緒したわけです」とバイニング宛ての手紙に書いている。銀ブラ事件で動揺したためだろう。ただ、そういう行動こそ皇太子の生活を息苦しくしていることに小泉らは気がついていない。