「これ、なんぼ?」「100円でええ」100均ダイソー創業者・矢野博丈が残した、“仕方のない状況を受け入れる”経営美学とは
2024年2月12日、“100均”の愛称で知られる「ダイソー」を経営する大創産業の創業者・矢野博丈さんが、心不全のため80歳で亡くなった。今でこそ小売業の一大ジャンルを築いた「均一ショップ」であるが、その誕生背景には、行き当たりばったりな矢野の「経営美学」があった。その思考の源泉を振り返る。 【画像】ダイソー・矢野に「催事場が汚くなる。これからの新時代にはふさわしくない」と言い放ったまさかの人物とは…
「仕方のない状況」が生み出した「100円ショップ」
1972年、とある街。そこにやってきた2トントラックには、大量の商品が積み込まれていた。トラックを運転していたのは、矢野商店の経営者・矢野博丈。商店といっても、小さな露天商で、トラックで各地を転々としながら細々と経営を続けていた。当時こうした商いは「サーキット商法」と呼ばれ、全国各地に同じような業者がいた。 矢野は商品を店頭に並べ始める。事前にチラシを配っていた効果なのか、客は列を成して待っていた。待ちきれなくなった客は、開店準備が終わるのを待たず、そこにあった段ボールを開け、目当ての商品を探し始めてしまう。 「これ、なんぼ?」 急いで、伝票を見る。 「ちょっと待って」 扱う商品の数は、何百にもなる。なかなか、見つからない。 客を待たせるわけにはいかない。思わず矢野の口をついて出た。 「100円でええ」 それを聞いたほかの客も、矢野に聞いてくる。 「これは、なんぼ?」 矢野はまた答えた。 「それも、100円でええ」 (大下英治『百円の男 ダイソー矢野博丈』、p.105) これが「100円ショップ」、いわゆる「100均」が誕生した瞬間だった。 客に急かされて、仕方のない状況から偶然スタートしたのが100円ショップだった。矢野の店はその後「ダイソー」の名称になる。 ダイソーの業績は右肩上がりで伸び、現在では年間売上高約5500億円、全世界店舗数6338店舗を抱える超巨大企業になった(ダイソー公式ホームページより)。後続するいくつかの100円ショップと競争を繰り広げつつ、今でも業界トップの座を占める。2022年には創業50周年を迎え、「2030年までに店舗数1万店・売上高1兆円」という壮大な目標を掲げている。 そんな、ダイソーを創業した矢野博丈が、2024年2月に亡くなった。 ここでは、矢野の業績を改めて振り返りながら、彼が生み出した独自の経営術について考えてみたい。