たとえ法学部で憲法を学んでも、多くの日本人が「普遍的な法的価値や理念」を理解できていない「衝撃的な理由」
第二次世界大戦後
太平洋戦争敗戦後の法の継受については、占領国であるアメリカ法の影響が決定的であり、日本国憲法がその典型だ。もっとも、日本国憲法は、比較憲法という観点からしても、すぐれた、充実した内容をもっており、それは、内外の研究者も認めるところである。また、各種の制定法も、新しい憲法に沿うかたちで改正され、あるいは新たに制定された。 この時期における法の切断については、明治期のものに比べれば小さいとはいえ、近代・現代憲法の掲げる諸価値がそこで初めて確立されたという意味では、やはり、無視できない重みがある。 侵すことのできない権利としての基本的人権、法の支配(統治する側の権力もまたより高次の普遍的な法によって拘束されるという原理)、手続的正義、人間の尊厳とそれを踏まえての法的な平等といった普遍的な法的価値・理念は、戦前の日本ではきわめて稀薄だったのであり、日本国憲法の下で、初めて明確に確認され、定着してきたといってよい。 しかし、ここでも、戦後の日本社会で、そのような理念が、本当に、十分に理解され、消化され、血肉化されてきたのか、またいるのかという問題は、今なお残っている。 そのことを示す一つの例が、日本の憲法学のわかりにくさ、その記述の内容に感じられるある種の「稀薄さ、何となくそらぞらしい印象」であろう。これは、基本的に、憲法判例の貧しさに起因するように思われる。 法学は判例によって発展する側面が大きいところ、今なお貧しい日本の憲法判例では素材が決定的に不足しているのだ。学者は、いきおい外国憲法学由来の難しい抽象論を展開せざるをえないが、何せ素材が乏しいので、その発展にも限りがある。私自身、「憲法が、人権擁護と法の支配のために、権力を厳しく規制、制限するものだ」ということを初めて実感として理解したのは、裁判官になってから留学準備のためにアメリカ法を本格的に学び始めた時のことだった。なお、アメリカに限らず、欧米諸国の憲法判例において、あらゆる人権が詳細に具体化、血肉化されている程度は、日本とは比べものにならない。 憲法を学ぶ学生は、法学部を始め非常に多いにもかかわらず、人権、法の支配、手続的正義等々の普遍的理念についての学生たちの認識は、それによって本当に深まっているといえるのだろうか?それがいささか疑問なのは、『現代日本人の法意識』第1章でふれた「アリスの法意識と現代日本人の法意識の対比」からも、明らかだろう。ことに、法の支配と手続的正義を踏みにじるハートの女王の暴言に、しつけのよい令嬢のアリスが、間髪を容れず、また敢然として、「たわごとよ、ばかげてるわ(スタッフ・アンド・ナンセンス)」と激烈な抗議を行っていることを思い出してほしい。七歳の少女のうちにも、先のような理念は、萌芽的なかたちではあれ、単なる「知識」にとどまらないものとして、根付き、血肉化されているのである。一方、日本の学生が大学の憲法の講義や演習で「優」をとったからといって、必ずしも憲法の精神が身についているとはいえないのだ。 さて、戦後の法の切断についてもまた、その陰の「屈折」という要素は存在する。憲法制定過程と天皇制の扱いである。 憲法については、日本側の改正案がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によってしりぞけられ、改正は、アメリカ側の草案によることとなった。これについては、私は、基本的には、やむをえないことであり、また、結果としてはオーライの事態でもあったと考えている。残念ながら、頭の中が基本的に大日本帝国憲法のままであった日本側の起草者が戦後の日本にふさわしい案を作成できなかったのは、否定しにくい事実だからだ。 しかし、上のような事情はあるにせよ、占領国のスタッフが原案を作成することになったのも事実であり、この事実は、日本の戦後に長い尾を引いた影をも落とすことになった。 また、アメリカが、効率のよい占領政策の遂行という観点から、旧来の統治機構を相当に温存、利用して、間接占領という形式の統治を行ったことも、新しいものの下に実は古いものが残存するという二重基準状態を定着させる結果を生んだ。 占領政策のために利用された要素が最も大きいのが、天皇制の扱いであろう。アメリカが早々と天皇制存続の方針を固めたのは、占領政策をスムーズに進めるためだった。 また、アメリカは、一方で日本の指導者たちの戦争責任を、法的根拠としては問題を含む極東国際軍事裁判(東京裁判)で問いながら、他方では、どうみても法制度上からは最高責任者としかみようのない天皇については、保守主義者、天皇制擁護論者の間にもけじめを付けるための現天皇退位論が相当に強くあったにもかかわらず、平和憲法の象徴としてそのままに在位させるという政治的決断を行った(小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉──戦後日本のナショナリズムと公共性』〔新曜社〕等)。後者の事実が、法的・政治的責任一般に関する戦後日本人の意識に影を落としたことも、否定しにくいであろう。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)