たとえ法学部で憲法を学んでも、多くの日本人が「普遍的な法的価値や理念」を理解できていない「衝撃的な理由」
日本人はなぜ「法」を尊重しないのか? 講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。 【写真】江戸時代の子どもは現代の大学生も及ばない「高度な法意識」を持っていた!? 本記事では、〈「江戸時代の子ども」は「現代の大学生」も及ばない「高度な法意識」を持っていた!?…知られざる江戸時代庶民の「民事訴訟」リテラシー〉にひきつづき、明治時代から第二次世界大戦後までの法意識の歴史とその特質について、くわしくみていきます。 ※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
明治時代から第二次世界大戦まで
明治時代になると、以上の伝統を一挙にくつがえすようなかたちで、怒濤のようにヨーロッパ法が流入してきた。しかし、これは、ご存じのとおり、治外法権、関税自主権の喪失等を内容とする不平等条約撤廃のために近代的法制度を整えることを第一の目的としていた。すなわち、法継受の目的が外向きでいびつだった。この当時から、外圧で動きやすい国だったともいえる。 また、日本人起草者たちは明治日本の底力を示す一典型として非常に優秀な人々であったとはいえ、やはり、急いで作られた制定法は、従来の日本法とはあまりにも異質なものであり、それを無理矢理押し込めるかたちで成立した傾向が否定できなかった。したがって、それらは、特に当初の時点では、人々が漠然と意識してきた、また、意識している法とは、かけ離れたものであった。 その一例が、民法領域における土地所有権制度の改変である。江戸時代には、建前上は田畑の売買が禁止され、また一つの土地の上に入会権等の多様な慣習的権利が重畳的に存在しうるなど、土地所有権の内容が近代法のそれとは多くの点で異なっていた。しかし、明治になると、絶対的で制約のない近代的所有権が確立され、同時に、これに対する課税制度も整備された。 こうした制度改変に伴い官有地とされた多くの山林では、近隣住民の入会権等の慣習的利用権も制限されてゆき、たとえばそのような旧制度と新制度の軋轢から、多数の訴訟も起こっている。 さて、これらの新たな法律、法制度の頂点に立った大日本帝国憲法は、形式的には権力分立を規定していたが、それら機構の統治権は、「神聖にして侵すべからざる万世一系の天皇」が総攬することとされていた。現人神としての天皇のこうした大権は、イデオロギー的には天孫降臨神話によって正当性を付与され、「国体」の基本となった。忠君愛国の精神を浸透させるための「教育勅語」と「国家神道」がこれを補強した。 なお、権力分立といっても、司法については、裁判官が司法省の傘下にあり、行政の司法に対する優位は明らかだった。司法の機能も主としては治安維持であり、民事事件の比重は相対的に軽く、和解、調停重視の傾向が江戸時代からそのまま引き継がれた。 家族法の領域では、法制度としての「家制度」の確立が重要である。戦後の改革に伴いいくぶんかたちを変えつつも今日まで連綿と続いている戸籍制度は、家制度の基盤であった。明治の戸籍制度は、戸を単位とし、戸主には家の支配者としての大きな権限を与えていた。住民登録、親族登録、国民登録を兼ねる究極の身分登録簿といえる日本の戸籍は、ほかにあまり例のないものであり、これによって明治の「家制度」が可能になったともいえるのである。それは、税制、徴兵制、学制等々の国家的政策の基盤ともなった。 戦後約80年を経た今日でさえ、人々は、「で、籍はいつ入れるの?」、「もう籍は入れたの?」と、あたかも婚姻イコール戸籍への記載であるかのような言葉遣いを無意識のうちに行っている。日本人の法意識の無意識領域には、家制度の根幹であった明治の戸籍制度が色濃く尾を引いているのだ。戦後、法学者たちが、「家破れて氏(うじ)あり、家破れて戸籍あり」との感想を漏らしたのも、自然な事態といえる。 以上から明らかなとおり、明治時代の法制度は、従来の法制度とは切断された近代的西欧的法制度を確立した側面とともに、天皇制や家族制という日本の固有法の要素をも含んでいた。しかし、注意すべきは、後者の固有法の要素については、明治政府の政治的イデオロギーによって新たに潤色、創作された部分、それに都合のいいようにねじ曲げられた部分も大きかったことである。 欧米列強に対抗するために、キリスト教に代替する日本なりの「普遍的原理」として創作された傾向の強い明治天皇制、絶対君主的な立憲君主と擬似的な一神教の神を混淆したような明治天皇制については、特にそういえた。 こうして築き上げられた大日本帝国、その法制度には、後発的帝国主義国家として発展してゆく素地とともに、そのたががゆるんでくれば容易にファシズム化の波に飲み込まれてしまいやすい傾向もまた、当初から存在していたといえよう。 それでも、明治から大正の日本には、「西欧を規範としつつ日本固有の事情をも加味した近代」の確立を唱え続けた指導的知識人たちの理想に沿って、欧米近代を、特にその本質的な部分を咀嚼、消化してゆこうという努力があった。たとえば、夏目漱石や森鴎外の文学にもそれは明らかだ。また、ジャーナリズムの機能もそれなりに果たされていて、すぐれた部分の水準は高かった。 しかし、昭和期に入ると、第一次世界大戦後の政治・経済情勢の影響もあって、日本は、ファシズム化の動きが顕著な国の一つとなり、いわゆる十五年戦争への突入に伴い、未だ萌芽の段階にあった民主主義も、封じ込められていった。特に、大正末の1925年に制定された治安維持法は、明らかにファシズム的な性格をもっていた。それは、次第に強化され、規制対象のあいまいさと拡張解釈から、左翼のみならず自由主義者までをも根こそぎにし、沈黙させていったのである。