松岡功祐、母校・明治大学にコーチとして凱旋。"人間力"を備えた選手たちを毎年プロに送り込んだ5年間
「注意を受ける時、人のうしろに隠れるような選手よりも近くにいるやつのほうがかわいいですよ。何かを言われる時には、チャンスがある。何も言われなくなったらもう終わりです。無視されることほどつらいことはない。それがわかるから、僕はどんな選手であっても近づいていって話しかけます」 今日も元気か? 朝ごはんをちゃんと食べてきたか? それだけでもいい。 「僕は学生や選手に対して、『おまえに関心がある』ということを示すために、そうしてきました。あいさつしても返事を返さない指導者もいますけど、あれが一番よくない」 明治大学で育った松岡はあいさつに厳しい。 「あいさつしても、ほんの少しだけ頭を下げるだけのやつがいます。そういうのを見ると僕は『ちゃんと声を出せよ』と言います。『なんぼ耳が遠くなっても、このくらいの距離なら聞こえるぞ』と冗談で。普段、声の出ない子はプレーも消極的だったりしますからね。あいさつは自分からいくらしても、減ることはありませんよ(笑)。人からしてもらってうれしいことは積極的にやればいい」 松岡はグラウンド以外の態度にも目を光らせてきた。 「その子がどんな人間なのか、どんな状態なのかは、声を聞いて、姿勢を見ればわかります。これまでいろいろな人と接してきましたから、これには自信があります。 相手の気持ちはわからないかもしれないけど、気遣いは伝わってくる。そういう人のことは好きになるはずです。いい関係ができさえすれば解決できないことはないと僕は思っています」 ■引退後も球団から求められる選手 どれだけ騒がれて入団したドラフト1位でも、いずれはユニフォームを脱ぐ時が来る。 「選手に戦力外を通告する時、球団に残すべき選手かどうかを考えます。その時に大事なのは、人間力です。『どんな人間なのか、組織のために何ができるのか』を見ています。まともにあいさつもできないのに、チームに貢献できるとは思えませんよね。そういう部分は球団内でもよく話題になっていました」 明治大学野球部OBは、引退後もコーチや球団スタッフとして求められることが多い。 「いずれはみんな、引退します。糸原や福田にも、『そういう時のことを今から考えながらプレーしておけよ』と言っています。まわりの人はレギュラーから外れた選手のことをよく見ていますから。普段の振舞いが本当に大事です。 明治の後輩たちはみんな評判がいいですね。『一生懸命にやっていますよ』と言われると、自分が褒められるよりもうれしい。4年間、明治大学で教育されたことの証明だと思います」 明治大学での5年間、松岡は身を粉にして後輩の指導に当たった。プロ野球だけではなく、社会人野球に進んだり、中学や高校の指導者になった者もたくさんいる。 そんな松岡の献身的な姿を認めたのが、中日ドラゴンズで4度のリーグ優勝を飾った名将・落合博満だった。 なんと齢72歳にして、プロ野球(NPB)復帰を果たすこととなる。 第12回へつづく。次回配信は2024年5月18日(土)を予定です。 ■松岡功祐(まつおかこうすけ)1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている。 取材・文/元永知宏