【オードリー・ヘプバーンの生涯】無二の友人が語った「好きな料理」と「最後の恋人との出会い」
約40年に及んだそのキャリアのなかで、オードリーが出演した映画はわずか27本。いずれも一度は観るべき作品であり、その多くは3回、4回、あるいはそれ以上観てもなお、初めて観たときの新鮮さを失うことがありません。 オードリーの死からちょうど10年目となる2003年、『タウン&カントリー』誌は彼女に最も近い存在だった親友のコニー・ウォルド(2012年没)から、その人柄や、ともに歩んだ人生の思い出について話を聞いていました。生前のオードリーについて、彼女を巡るいくつかの事実とともに振り返ります。
無二の友人、コニー・ウォルドが語るオードリー
ハリウッドの映画プロデューサー、ジェリー・ウォルドの妻、コニー(2012年に死去)。オードリーがハリウッドの「わが家」と呼んだビバリーヒルズの家に62年暮らしていた彼女は、オードリーの親友のひとりでした。 「本当に素晴らしい女性でした。彼女のような人には、会ったことがありません。ただただ、彼女のことが大好きでした。趣味も似ていたのです。家が大好きで、家族を愛し、料理が好きで…この家も大好きでした。自分の家のように思っていたのです。 LAにいる間、パーティには行きたがりませんでした…ダイニングルームでもなく、キッチンで夕食を取ることができれば、それでよかったのです。 オードリーとロブ(ロバート・ウォルダーズ)が来るときには、彼女のお気に入りの料理を用意しました。チキンサラダです。彼女はいつも、夕食の前にはスコッチを飲み、煙草を吸いました。デザートはたいてい、青りんごでしたね。チョコレートも大好きでした」 写真:『ローマの休日』撮影中のオードリーとグレゴリー・ペック、1953年撮影
「よく一緒に料理をしました。(映画監督の)ウィリアム・ワイラーと奥さんのタリ(俳優のマーガレット・タリチェット)や、ビリー・ワイルダー監督と俳優のオードリー・ヤング夫妻、俳優のジミー(ジェームズ)・ステュアートなど、友人たちを招いてパーティを開くこともありました。 オードリーは、常に魅力的でした。彼女のような友人を持つことができたのは、幸運なことです。彼女は真の人道主義者でした。世界がソマリアの問題に目を向けるようになったのは、オードリーのおかげだと思います。 ソマリアから戻った後、彼女はうちに来ていました。1992年のことです…体調が悪く、医師の診察を受けました。ソマリアで何かの病気にかかったのだと思ったのですが、そうではありませんでした。 かなり具合が悪くなってからも一緒にいました。彼女は一言も不平を言いませんでした。常にほかの人たちのことを考えており、本当に思慮深く、とても優しい人でした。元気なときも弱そうに見えましたが、本当に強い人でした」 写真:『パリの恋人』撮影中のオードリー、1956年撮影