マツダの100年史【1】「広島松田製作所」小さな工場から100年を経て世界で活躍する自動車メーカーへ
東洋コルク工業株式会社に始まるマツダ100年の歴史を、R360クーペに始まる乗用車の歴史を中心に振り返ってみよう。 【画像8枚】R360クーペ、キャロルなど、マツダの乗用車事業への参入は軽自動車からスタートした 2020年にマツダが創業100周年を迎え、4年が経過した。小さな工場からスタートした会社は、100年を経て、世界で活躍するグローバル企業へと生まれ変わった。創業者である松田重次郎の思いは、いまでも脈々と受け継がれ、マツダらしさとなっている。 20世紀初頭、松田重次郎を突き動かしたのは「モノづくりへの情熱」。機械工業を習得するため、さまざまな工場での仕事を経験し、時には、他の工場を見学し、研究を重ねたという。 そして、31歳の時に「専売特許松田式ポンプ」を製造、販売。わずか10坪の工場からのスタートであった。既存の製品を徹底的に研究し、改良を重ね、世間が喜ぶ製品を作る。それは、マツダが歩むことになる、たゆまない技術革新探求の第一歩でもあった。 大阪で起業した松田は、広島に戻り「広島松田製作所」を設立。1920年、不振に喘いでいたコルク会社「東洋コルク工業」のテコ入れに参画。社長となり、断熱材や緩衝材などの新製品を生み出し、会社を復活させた。 しかし、1925年に東洋コルク工業の工場が火災に見舞われ、大きな損害を負う事故が起こる。自身は機械工業の道を進むべき、と社名を「東洋機械工業」に改め、再起を誓うことに。 そして、再起のきっかけとなったのが、三輪トラックDA型だった。国民生活の向上を願って、市民の生活に目を向けると、1923年の関東大震災を境に、輸送手段に自動車の姿が目立ってきたことに気づいた。 そこで、自動車よりも扱いやすく、小回りの利く三輪トラックに注目。他社が主要部品を輸入に頼っていたところを、できるだけ国内生産できるようにしたことは、大きな特徴であった。 松田の名前から三輪トラックを「マツダ号」と命名し、販売を開始。瞬く間に市場に浸透し、後の四輪自動車メーカーとしての礎を築くことになった。 オート三輪メーカーとして、順調に成長し、高性能モデルを製造する東洋機械工業。54年には、マツダ三輪トラックの年間生産台数は3万6000台に達していて、他社の年間生産台数と比べても、その数値は群を抜いていた。 57年にはT1500が登場。シェアを大きく伸ばし、人々の生活でかかせない存在に。しかし、やや大きくなりすぎたオート三輪に対して、小型モデルが求められる声も高まりつつあった。 市場の声に反応するように、東洋機械工業(以降マツダ)は動く。そして生まれたのが、59年に販売されたK360とT600。コンパクトながら、乗り心地、使いやすさを追求したモデルで、オート三輪ではあったが、四輪車のような仕上がりであった。このモデルこそが、後に四輪へのターニングポイントとなる重要なモデルでもあった。 60年、マツダ初となる四輪乗用車のR360を発売。そして、62年キャロル、64年ファミリア、66年ルーチェと、2年ごとに、乗用車を次から次へと投入している。四輪乗用車への本格参入から、まだ10年もたっていなかった。 1931年 三輪トラックDA型 発売 コルク産業からの転換期、次の市場として白羽の矢を立てたのが三輪トラックの世界であった。関東大震災などを経て、市民の生活に必要な機械として重宝されていたことを敏感に感じ取り、高性能なモデルで市場を圧巻。他メーカーとは一線を画す技術力で、そのシェアは一気に拡大していった。 1960年 R360クーペ発売 先に発売されたK360のエンジンを改良して、軽量化された高性能エンジンを搭載した、マツダ初の量産四輪乗用車。ボディも徹底的に軽量化されている。乗り心地は非常にソフトで、いちはやくオートマチックを設定するなど、ドライバーホスピタリティにあふれていた。しかも、販売価格も抑えられていたのだ。 1962年 キャロル発売 2+2のR360クーペに対して、しっかりと4名が乗車できるモデル「キャロル」が登場した。リアウインドーのクリフカットなど、60年代のアメリカ車をそのままスケールダウンしたようなデザインであった。エンジンはリアに配置され、水冷4サイクル直列4気筒のOHVを採用。排気量は358㏄だったが、クロスフロー吸排気弁などを搭載していた。 1964年 ファミリア発売 マツダが本格的な小型自動車へ参入した最初のモデル。イタリアンデザインを採用し、絶大な人気を誇った。セダン、クーペ、ワゴン、バン、トラックが展開されていた。 初出:ノスタルジックヒーロー 2020年4月号 Vol.198 (記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)
Nosweb 編集部