退屈すぎる定年後に効く言葉…日本が誇る天才が遺した「心に刺さりすぎる名言」
70歳ではまだまだ未熟
忠敬の「生きる指針」が商人としての正直さ・合理主義・謙虚さであったことは、家督を継いだ長男にあてた「伊能家家訓」に表れています(以下、現代語訳)。 一 仮にも人に対して嘘偽りをせず、親に孝行、兄弟仲良く、正直であれ。 二 目上はもちろん目下の人の意見もよく聞き、納得のいく考えは取り入れよ。 三 人に対する敬意と謙譲をもって言動を慎み、けっして人と争いなどせぬように。 これらの「指針」に加えて、年齢にとらわれず心からやりたいことに挑戦して努力を続ける気力、天文や測量のすぐれた技術、したたかな行動力、商家の主として培った統率力、財力があったからこそ、全国測量事業を成就できたのでしょう。 「富嶽三十六景」や「北斎漫画」などで知られる葛飾北斎(一七六〇~一八四九)は、江戸時代では異例の長寿といえる八八歳で没するまで、何度となく新しい画風に挑戦し、確立させました。七五歳のときに絵師としての気概を記した一文が有名です。 「七〇歳前の作品は取るに足らず、七三歳で生き物の骨格や草木の出生の理をいくらか知ることができた。努力を続ければ八〇歳でますます上達し、九〇歳で奥義をきわめ、一〇〇歳で神妙の域となり、百何十歳に至って描くものの一点一格が生きているようになるだろう。長寿を司る神よ、私のこの努力への言葉が偽りでないことを見ていてください」 臨終の際に北斎は、無念の言葉を遺したといいます。 「天が私をあと一〇年、いや五年生かしてくれれば、真の画工となれたのに……」 生涯をかけて一つの仕事に没頭したのみならず、仕事を通していつまでも成長を続けようとした執念が感じられる言葉です。 さらに連載記事〈ほとんどの人が老後を「大失敗」するのにはハッキリした原因があった…実は誤解されている「お金よりも大事なもの」〉では、老後の生活を成功させるための秘訣を紹介しています。
丹羽 宇一郎