緒形直人 スタッフ志望から俳優に!「オヤジ(緒形拳)に10年続けたら褒めてやると言われ…」
1988年、映画「優駿 ORACION」(杉田成道監督)で主演デビューを果たし、第12回日本アカデミー賞新人俳優賞を始め、多くの映画賞を受賞して注目を集めた緒形直人さん。父・緒形拳さんとの父子共演も話題に。「北の国から '89帰郷」(フジテレビ系)、大河ドラマ「信長 KING OF ZIPANGU」(NHK)、映画「わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語」(大森一樹監督)などに出演。2025年1月10日(金)に公開される映画「シンペイ~歌こそすべて」(神山征二郎監督)に出演している緒形直人さんにインタビュー。(※この記事は全3回の前編) 【画像】緒形直人 スタッフ志望から俳優に!「オヤジ(緒形拳)に10年続けたら褒めてやると言われ…」
■中学生の時に今村昌平監督の映画「楢山節考」の撮影現場へ
神奈川県横浜市で俳優・緒形拳さんの次男として生まれた緒形直人さんは、小さい頃から外で遊ぶ元気な子どもだったという。 「野山を駆け回るというか、学校が終われば、みんなでボールとバットを持って公園に行って遊んで、夕飯前にちょうどいいところで家に帰ってくるという感じでした」 ――お父さまが俳優さんだということは、いくつぐらいから意識されていました? 「小学校の4、5年の時にオヤジがコマーシャルに1本出るようになって、友だちからちょっといじられてそれぐらいからですね」 ――小さい頃は将来何になりたいと思っていました? 「将来のことは全く何も考えてなくて、特にはなかったです。毎日遊んでいることに一生懸命でした」 ――それが変わってきたのは、いくつぐらいからですか 「中学校2年生ぐらいの時に、『楢山節考』という映画のロケに手伝いに行って、完成した映画を見て、ものすごく感動してからです」 「楢山節考」は、信州の山深い寒村を舞台に、子が老いた親を山に捨てる残酷な因習を描いたもの。70歳を迎えた老人は、冬に楢山へ行くという掟があり、69歳の母・おりん(坂本スミ子)は、母親思いの息子・辰平(緒形拳)とともに楢山に向かう…という内容。1983年・第36回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールに輝き、海外でも話題に。 ――「楢山節考」のロケのお手伝いはどのようなことをされていたのですか 「あの映画は、電気もガスも水道も通ってない山奥で撮っていたので、照明やカメラのバッテリーがなくなると、それを担いで電源がある車のところまで片道90分ぐらいかけて降りて行って、下で大量に充電して、それをまた担いで山奥に上がって行くんですよ。 ほぼ1日中その繰り返しで、あとは俳優さんが来た時にそのバッテリーを担ぎながら道案内をして。それから撮影用に馬と蛇とフクロウとか…とにかく動物をいっぱい飼っていたので、その餌やりとかをしていました。撮影現場にはほとんどいなくて、ずっと山奥と下を往復している感じでした」 ――撮影のお手伝いはどうしてやることになったのですか 「多分オヤジは、毎日毎日を楽しくその日暮らしをしている息子たちでいいのかなって思ったんでしょうね。『夏休みだし、バイト代をあげるから兄貴と来い』と。だから、『兄貴が行くって言うんだったら行くよ。ちゃんと(バイト代)くれるんでしょう?』って、それで行くことになったんですよね。夏休みの10日間ぐらい」 ――実際にやってみていかがでした? 「僕は電気もガスも水道もない生活というのはそれまで1回も経験がなかったんです。暗くなるともう寝るしかないっていう感じで。水道も通ってないということは、山水を引っ張ってきて風呂を沸かすんですよね。 そうするとお湯がまっ茶色で泥が下にある風呂なんですけど、その茶色い風呂に入れなくて。普通はきれいにするために入るのに、それだと綺麗にならない感じがするじゃないですか。逆に病気になるんじゃないかって思って。 『泥のお湯に浸かるなんて何のため?』って思うんですよね。それでうちの兄貴が入らないで出てきたから、風呂に入らずにこのまま寝ようって話して布団を敷いたりしていたんですけど、その話を聞きつけてうちのオヤジが飛び込んできて。 『これはね、疲れを取るために入るんだよ。あったかいお湯に肩まで浸かってね。スタッフっていうのは、俳優もそうだけど、この風呂に浸かって疲れを取って、次の日の撮影に向けて体を整えるんだ』と。 『そうやってみんな疲れを取って、また元気な姿で現場に集まってきて一つ一つ準備してこしらえて、現場が、土台が出来上がって、その上で俺らは元気な体で芝居するんだよ』って言われたんですよ。『これはとても大事なことなんだ。みんなゆっくり入っているだろう?』って言われて、『そうか』って思って。 それで仕方なくっていうか、確かにそうなのかなと思ってその泥の風呂に入ったんですよ。そうしたらね、やっぱり山道を何往復も歩いているじゃないですか。疲れているんですよね。 でも、風呂に入ったら、その日は体がポカポカしてゆっくり寝られたんです。それで、確かにオヤジが言う通りだなって思ったし、兄貴と僕はたった10日間だけど、みんなはこれを半年ぐらい続けて映画を撮っているんだって思って。 それから半年以上経った時に映画が完成したというので、一人で見に行ったんですよ。そうしたらこの映画が面白くてね。それまで家では、オヤジが出ている映画は見ちゃいけないっていうことをずっと母親に言われていたんです。他の映画だったらお金は全部出してあげるけどオヤジの作品だけはダメって。 オヤジがそれまでやってきた作品というのは、濡れ場があったり、子どもを殺したり、殺人鬼だったり…そんなのばかりだったので、それを子どもに見せちゃ環境的に悪いだろうということで、敢えて見せなかったんですよね。 だから僕は『楢山節考』で初めて父親の映画を見るんだけど、その時に別に父親だと思いもしなかったし、そこにちゃんと生きているその土地の人たちのああいう風習というものを目の当たりにして、“映画の力”というか、映画ってこんなにすごいんだというのをまざまざと感じ取ったわけですよ。その感動がもう忘れられなくて。 その日暮らしをしていた男が何をしようかって考えた時に、やっぱり僕は今村昌平監督のスタッフになりたいなって思ったんですよね。 それで、今村昌平監督に1回会いに行って、色々お話を聞いてもらった時に、『とりあえずじゃあ何をやる?』って聞かれたので、『何ってスタッフですよ。何でもいいんです』って言ったら『いやいや、何でもよくないんだよ。スタッフって一つ一つ部署が分かれているのを知っているの?』って聞かれて。 何も知らなかったので、『みんな一緒のことをやるんじゃないんですか』って聞いたら、『いや、照明、カメラ、大道具、小道具…いろいろあるんだよ。じゃあ、それを劇団とかで勉強してから来たって遅くないよね』って言われたんです」