海外に出る前に知っておきたい「日本のキホン」─「アイヌとはどのような民族ですか?」
停滞した閉鎖的な社会?
アイヌは、縄文文化の精神的伝統を受け継ぐだけでなく、一貫して狩猟漁撈をおもな生業としてきました。とはいえ、彼らの暮らしや文化が縄文時代以降、変わらなかったわけではありません。 縄文時代に続く、弥生・古墳時代に並行する北海道独自の文化を続縄文文化と呼びます。続縄文時代には本土の農耕文化が受け入れられませんでした。この事実は、寒冷な北海道では先進的な農耕文化が受容できず、旧来の縄文文化にとどまり、閉鎖的な社会が続いたことを示すとされてきました。しかし、この通説は正しくありません。 農耕文化が広まった弥生時代の本土では、耕地をもたない海辺の人々が、農耕民との交易のため漁撈文化を深化させました。縄文文化の陰影を強く帯びていた本土の海民は、遠隔地との交易にも従事し、彼らの足跡は北海道から沖縄まで残されています。 続縄文時代の人々は、渡海してくるこの海民の先進的な漁撈文化や呪術といった精神文化まで積極的に導入し、彼らとの交易に傾斜していきます。のちのアイヌは、広大な北東アジア世界で交易を繰り広げる「海のノマド」でしたが、その起源は続縄文時代に遡ることができるのです。 そもそも農耕が受け入れられなかった理由も、北海道の寒冷な気候のせいではありません。というのも、続縄文時代に続く擦文(さつもん)時代(奈良・平安時代並行)の北海道では活発に農耕がおこなわれていました。続縄文時代に農耕が導入されなかったのは、非農耕民である本土の海民の文化を受容したためだったようです。
交易と戦いの時代
しかし奈良時代から平安時代のはじめにかけて、海民に代わって東北北部の農耕民が交易のため渡海し、大きな影響を北海道へもたらすようになります。 最大の影響は先述のとおり農耕が広まったことですが、ほかにも農耕祭祀やこれに欠かせない酒の醸造技術、住居の形式、織物の技術、箸と埦を用いる食事の形式など、衣食住から精神文化にいたるまで本土の農耕民の文化が受容されました。 近世のアイヌ文化には、この擦文時代の文化が多く受け継がれています。たとえば、アイヌの祭祀や儀礼にまつわる語彙の大半も古代日本語由来なのです。 とはいえ、北海道の人々が本土の文化に同化し、農耕民になってしまったわけではありません。擦文時代になると本土側では北海道産品の需要が高まり、道内各地で商品の開発が進みます。 オホーツク海沿岸では矢羽用のオオワシ尾羽、日本海沿岸では祭祀用の干しアワビ、内陸部では食用の干しサケや獣皮、道南ではコンブなど、多くの商品が擦文時代の北海道から本土へ出荷されます。擦文時代の人々は、以前に増して狩猟漁撈に特化していくことになったのです。彼らは農耕民の文化をまとった狩猟民でした。 各地で商品生産の狩猟漁撈に特化する社会のありかたは、その後も近世まで受け継がれていきます。アイヌが縄文の世界観を受け継いできたのは、それが狩猟漁撈の暮らしに適合する世界観だったからでしょう。 この商品経済への適応をもとに、日本列島を網羅する流通網の確立にともなって、12~13世紀には高価な漆器類や鉄鍋など本土の文物を多くとりこんだニブタニ文化へ移行します。さらに新たな商品を入手するため、縄文時代には足を踏み入れることのなかった北海道の外の世界へ進出します。 11世紀頃に始まったサハリン進出は13世紀になると拡大し、同地に政治的影響を及ぼしていた大モンゴルとのあいだで数十年にわたる戦争を招くことになりました。交易の時代は、対立と戦いの時代でもあったのです。