変わりゆく町と「震災遺産」と住民たちの心の風景 南三陸~気仙沼
宮城県の南三陸町は、東日本大震災で最大規模の惨禍を被った場所の一つだ。町全体を飲み込む津波の凄まじさは、当時何度もテレビなどで放映され、日本のみならず、世界の至るところでも報じられた。津波の恐ろしさというものを、あの映像で初めて実感し、理解できた人も多いのではないか。
今回、満5年の慰霊の日ということで、私はどうしてもここに来たかった。震災が起きた後に、初めて入った被災地もここだったということもあるし、その惨状を目の当たりにして、幾多の戦場を歩いてきた私にとっても、かつてほとんど見たことがないほどの破壊だったということもある。この5年の間に何度も訪れ、ただ立ち尽くしていた記憶はまだ新しいものだ。
特に防災対策庁舎は、そこで職員の方たちが亡くなり、建物が骨組みだけとはいえ流されずに残ったことで、これもまた震災の象徴として捉えられている。そのため現在でも「震災遺産」として残すのか、悲しい記憶を呼び覚ますから解体するのか議論されているが、その結論はまだ出ていない。 個人的な意見としては、取り壊さずに残してほしい。あれだけの大きな自然災害で、2万人を超える人々が亡くなっているのだから、その教訓や亡くなった人たちの記憶を語り継いでほしいと思う。
今回この地を訪れて、いちばん驚いたのは、復興のための工事の早さとその巨大さだ。1年以上前に訪れたときとは、町の光景がまったく変わっていた。 骨組みだけの防災対策庁舎だけが残り、あとはすべて解体されてしまった。また、町全体が土を盛り上げた巨大な山に埋もれている。地面をかさ上げして、新たな町を作る計画なのだという。その工事の喧噪の中で、3月11日の慰霊の日を迎えた。遺族や地元の方々が次々と訪れる中、たくさんの報道陣がカメラを構える。震災が起きた、14時46分になると、誰もが黙祷を捧げ、亡くなった人々の冥福を祈った。
被災地はどこに行っても道路が大渋滞し、ホテルも空きがないほどに混み合っている。これも復興のために現地に来ている工事関係者や行政などの人間たちがいかに多いかの証だろう。町やインフラの整備は進み、外面だけ見ると、確実に復興していると感じる。 かつて津波で破壊された道の駅も復旧し、以前撮影した鳥居だけが残っていた神社も、塗装も新しくなり、海を見守るように立っていた。 復興が次々と形になっていくことは素晴らしいことだと思うが、それはそこに住む人間との共生あってこそだと思う。その辺が、これからの課題かもしれない。 (写真・文/村田信一)