シャンソン歌手・クミコ「この道一筋ではなく…常に体半分は逃げ腰だった」回り道の連続、気づけば隣にシャンソンがいた
【ぴいぷる】 人生における喜びや悲しみが盛り込まれたフランス生まれの音楽、シャンソンを40年以上も歌い続けてきた。だが、「この道一筋で頑張ってきたわけじゃなく、常に体半分は逃げ腰でした」と打ち明ける。その理由は、「本当は流行歌で知られるようになりたかった」と思っていたからだ。 「同じ『ソン』でも、農村、山村、漁村の3地域に流れるような曲が歌えたら歌い手として成功だと思っていました」 誰もが認める第一人者だけに意外な言葉だ。 「昔から他の人のできることができなかったり、自分の居場所がよく分かっていなかったりで、うまくいかないという人生がず~っと続いたんです」と苦笑いする。 一念発起してミュージカルに挑戦したことも。1987年初演の「レ・ミゼラブル」にアンサンブルの1人として出演した。 「『エコル レ・ミゼラブル』と呼ばれる、レミゼの学校みたいなものが開かれて、みんなでレッスンを受けました。でも、ミュージカルも原作も知らない状態で飛び込んだので、嫌で嫌でたまらなかった。揚げ句の果てに稽古の最中に映画を見に行って、他の出演者に見つかってしまったことも。帝国劇場辺りを歩くたびに、胃が痛くなった時期がしばらくありましたね」 歌の道を進みつつも、挫折や回り道の連続だった人生に、常に付き合ってくれたのがシャンソンだったという。 「腐れ縁だと思っていたら、伴走者のような存在だったということですね。あっちに行けと思っていたけど、隣にいて励ましながら一緒に走ってくれている。年を取るにしたがって自分の心情を落とし込める奥深さがあると理解でき、私自身がフィットできるようになりました。フランス生まれの伴走者は、なかなか愛(う)いやつだなと実感しています」 今年は宝塚歌劇団を経て日本シャンソン界の女王となったレジェンド、越路吹雪さんの生誕100年、さらに名曲「愛の讃歌」を初録音してから70年という節目の年。 「越路さんはミュージカルでも歌でも成功された希少な存在。他の人にはないかっこよさがありました。岩谷時子さんという、この上ないパートナーがいたことも大きかったでしょう。シャンソンが岩谷さんの訳詞によって生まれ変わり、独特の歌に昇華したわけですから」